2015/03/27

『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 を読んで その1

『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 を読んでいる。


あのとき、大川小学校で何が起きたのかあのとき、大川小学校で何が起きたのか
(2012/10/24)
池上 正樹、加藤 順子 他

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プロローグを読むと意外なことに著者のお一人、池上正樹氏が取材をはじめたばかりの頃、この悲劇に対する印象はこうだったそうだ。


「学校の教師達も子どもを助けようとして一生懸命だっただろうし、裏山への避難は危険だったからやむを得ず三角地帯に向かったという話を聞いているから、これは想定外の事故であり、誰も責められないのではないか」



ダイヤモンド・オンラインの連載を読むまで私もそうだったし、今でも多くの方が同じように思っておられるのではないだろうか。


ダイヤモンド・オンライン 大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~


しかし、連載を読み進めていくうちに、私が思っていたことが事実と異なることを知る。行政や学校そして教育委員会、さらには文科省の対応も、どこか今の日本という国を象徴しているような気がしてならない。誰も責任をとらない、見て見ぬ振りし、問題を先送りしてしまうなどだ。


3月11日に息子が言っていた。隣のクラスの先生は、大川小学校のあった場所を訪ね、この悲劇の話を皆に話したそうだ。


少しばかり意地悪な気持ちで、息子に私はこう尋ねた。


「それじゃあ亡くなった子ども達はどこで津波に襲われたのか知っている?先生は何ていった?」


「逃げている途中に津波がきたから・・・一生懸命逃げたけれど助からなくて、先生も子ども達も大勢死んじゃったんだよ」


「私もはじめはそう思っていたけれど違うみたいだよ。大川小学校に津波が来るまでの1時間弱のうち、実際に逃げたのは何分ぐらいか先生は教えてくれた?」


「わからない」


「考えてみてよ」


「30分か40分」


「ほとんど逃げていないの。地震がおきて津波がくるまでの50分もの間、校庭にいたんだよ。『早く山に逃げよう』と、先生に言った子供もいたのに、『校庭の方が安全だから』と先生に言われ連れ戻されたという子どももいる。裏山は急で子どもでは登れないのかと思っていたら、大川小学校では、しいたけ栽培を裏山でしていたんだって」


息子は言葉を失っていた。


この日、私が息子に伝えたこと以下のことだ。


●逃げたのは津波が来る1分前

子ども達は50分間も校庭にいて、津波到達の1分前に避難を開始した。津波に襲われたのは校庭。


●子どもの証言 『早く山に逃げよう』と言った

助かった児童が「『先生、早く裏山に逃げよう』と言ったのに、先生に連れ戻された」と証言している。


●裏山でしいたけ栽培をしていた

『裏山は急斜面があって登れない』と私は思い込んでいた。しかし大川小学校の子ども達は2007年頃まで裏山でしいたけ栽培をしており、体育館裏の斜面なら、低学年でも登れることがわかっていた。


●スクールバスが待機していた

大川小学校にはスクールバスがあり、学校前の県道にはスクールバスが待機していた。


●校長先生の対応

校長先生は、皆が必死に捜索している時に、現場にほとんど来ていなかった。


●助かった先生は本当のことを言っていない

学校にいた教職員11人のうち、助かったのは男性教諭1人だけ。しかしその先生は、本当のことを証言していないと思う。

なぜなら、「(先生の言っていることは)違う」という住民の証言が複数あるし、もしも先生の証言が本当だったら、科学的に説明のできない事実が判明しているからだ。(先生が上着のポケットに入れていた携帯電話が、先生の証言通りに津波に巻き込まれて濡れていたら、メールを送ることはできないなど)

先生はおそらく、津波が来る直前に裏山に逃げていて、山の上から津波が学校に押し寄せるところをみていたと思われる。


●報告書には重要な事実が抜け落ちている

教育委員会や学校は、聞き取り調査を録音せずに行い、自分達に不利な内容の証言を報告書に記載しなかった。それどころかメモを破棄してしまった。「先生が山から学校を見ていた」のなら、これらの行政の不自然な行動に説明がつく。


●大川小学校だけが多くの犠牲者を出している

大川小学校のある釜谷地区はこれまで一度も津波が到達した記録がなく、ハザードマップの浸水域からも外されていた。そのため住民の中にも津波がくるとは考えていなかった方が大勢いたそうだ。だから、先生や市に危機意識がなかったとしても仕方がないかもしれない。

しかし、近隣の被災地の小学校では犠牲者が出ていないのに、大川小学校「だけ」が多くの犠牲者を出している。この事実は重い。


●訴えておられるご遺族の中には、教員がおられる

裁判で闘っておられる親御さんの中には教員がおられる。石巻市は都会と違い、何かとしがらみが多い地方都市だ。教員という立場で、学校や教育委員会を訴えるには、余程の理由があるのではないのか。



「なぜ時間があるにも関わらず、逃げられなかったのか」ーーーーーその疑問は本を読み進めるうちに次第に大きくなっていった。亡くなった方々のためにもその原因を明らかにするべきだと思う。それが教育であり、教育者の使命ではないのか。


これは本の冒頭にある、池上さんの言葉だ。


「不思議なことに学校管理下でこれだけ多くの犠牲者を出しながら、行政はその原因に目を向けることなく重く受け止めてきた形跡がない。主体となる学校や市教育委員会などの組織の責任の所在は総括も処分もないまま置き去りにされ、ずっと曖昧にされてきている。それどころか、本来速やかに情報を公表していかなければならない立場の責任を有するはずの当事者たちは、どこかふわふわ楽観的で他人事のように受け止めているとしか思えない」



「隣のクラスの先生は先生だから、学校や先生の悪いことは言わないのかな。


一人だけ助かった先生がいるんだけれど、その先生はどうやら本当のことを言っていないみたいなの。同じ町の人達が何人も、その先生が言っていることは『違う』と証言しているのよ。


教育委員会や市の人達に言わないよう、口止めされているのかもしれない。学校や、先生の責任にされたら困るとか、いろいろ事情があるのかもしれない。


その他にも、市の報告書に書いていることが事実と違う。メモなどの大切な記録が捨てられたりしているの。


でも、大川小学校だけが、学校で大勢の死者を出してしまっているんだよ。大きな地震だから『仕方がない』でいいのかな?


亡くなった子ども達は、本当のことを知って欲しいと思っているじゃない?本当は『早く山に逃げよう』と先生にお願いした子どもが何人かいたのに、大人が黙っていたら言っていないことにされる。先生だって、何人も亡くなってしまったから先生を責めているんじゃないと思う。


そうじゃなくて、本当のことを知ってもらわないと、もし自分だったら『悔しい』と思わない?」


『我が子の死に、意味を持たせて欲しい』と訴えておられるご遺族の気持ちが、私には痛いほど伝わってきた。


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大川小児童の遺族が立ち上がってから4ヵ月 明らかになった真実、隠され続ける真相とは | 大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~ | ダイヤモンド・オンライン より引用


実際に、聞き取り記録や事故報告は、遺族側から、調査の矛盾点の指摘を受けて、変遷を繰り返している。
 

 市教委は、震災から1年以上にわたって、校庭から子どもたちが「避難をした」と説明していた。


 2011年6月4日の説明会では、“避難”開始時刻は、「午後3時25分頃」。それが、2012年1月22日説明会では「午後3時30分頃~」に変わり、1年後の2012年3月18日には「午後3時35分過ぎ」となった。


 遺族の追及によって、実際には避難と言えるような実態ではなく、津波に襲われる1分ほど前に「逃げ始めた」といったほうが正しかったことが分かったのだ。


 校庭から避難をしなかった理由については、裏山に倒木があったためとしていたが、それも「倒木があったと思われる」と、市教委は途中で説明を変えた。


 また、児童が教諭に向かって「山に逃げよう」と言っていたという児童たちの証言が、調書にはひとつもないのに、説明会での指導主事からの説明の中には出てくるという不審な点もある。


 さらに、重要な資料を、長期間公表しなかったという問題もあった。


 唯一生存したA教諭が保護者宛にメッセージを綴ったファックスを、市教委が公開したのは受け取ってから7ヵ月以上も経ってからだった。また、震災から5日後という直後の時期に、当時の柏葉校長から聞き取った被災状況の調書が存在することが、私たちの情報公開請求で分かったのは、震災から1年2ヵ月が過ぎた2012年5月18日だった。


 このように、震災直後に市教委が混乱していた、という理由だけでは説明がつかない重要事項が、疑問の残る形で公文書に残されてきたり、あるいは、ないとおかしいことが、なぜかなかったことにされてきたりした側面がある。



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2015/03/25

20年たってまたここに 取材対象者の人権を守るということ

『アンダーグラウンド』を数年ぶりに読んでみたら、大切なことを思い出した。


この本に共感したのは、村上春樹さんがサリン事件の被害者の声を表に出そうと決めた理由だった。「はじめに」にかいてある。


きっかけは、読者投稿欄に掲載されていた、被害者のご家族の投書を読んだことだったそうだ。読者投稿欄など普段あまり読まないし、気にとめたことがないのに、なぜかいつまでも心に残ったそうだ。


そこには、サリン被害への理解が社会にないために、勤務していた会社を退職せざるを得なくなった被害者の悲劇がかいてあった。


手紙を読んで私はびっくりしてしまった。どうしてそんなことが起こるのだろう?

(中略)

不運にもサリン事件に遭遇した純粋な「被害者」が、事件そのものによる痛みだけでは足りず、何故そのような酷い「二次災害」まで(それは言い換えれば、私たちのまわりのどこにある平常な社会が生み出す暴力だ)受けなくてはならないのか?まわりの誰にもそれを止めることはできなかったのだ?


その気の毒な若いサラリーマンが受けた二重の暴力を、はたの人が「ほら、こっちは異常な世界から来たものですよ」「ほら、こっちは正常な世界から来たものですよ」と理論づけて分別して見せたところで、当事者にとっては、それは何の説得力も持たないんじゃないか、と。


その二種類の暴力をあっちとこっちに分別して考えるなんて、彼にとった下の根っこから生えてきている同質のものであるように思えてくる。

(中略)

そしてかくのごとき二重の激しい傷を生み出す我々の社会の成り立ちについて、より深く事実を知りたいと思うようになった。



こうして村上さんは被害者にインタビューをしようと決意する。被害者の声を世に出そうととした理由は、被害者に人格を持たせるため、というようなことをおっしゃっておられる。


その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまり、あなたであり、また私でもあるのだから。


確かに村上さんのおっしゃる通りだった。


オウムの幹部や信者に関しては、生育歴から同級生の声まで、それこそ溢れるほど様々な情報が伝えられていた。その一方、被害者に関する情報は断片的で少ない。


だからだろうか。本を読み進めていくうちに、それまで「のっぺらぼう」のようで、ぼんやりしていた被害者像が、一人の人格として歩き出すような感じがした。


悲しみが心にせまってきたのは、そのためだ。


しかし、被害者の方にインタビューを申し込むことは、困難を極めたそうだ。なぜなら被害者の方々は、マスメディアの取材に強い不信感を持っておられたからだ。


さらに、若い女性の場合は、恐らく『結婚』という二文字がよぎるのだろう。ご本人が応じてもいいといっても、家族が反対する場合もあったそうだ。子宮頸がんワクチンの被害者にも同様の傾向があるときいた。


被害者とは、いつの時代でも、二重三重の苦しみを味わうようだ。


そのため村上さんは、被害者やご家族の人権を守るために、試行錯誤したようだ。


例えば「自分から語りたい」という人が現れるのはもちろん有り難いのだが、そのようなインタビュイーのパーセンテージが増えることで、本ぜんたいの印象が変わってくるかもしれない。それよりは、筆者としては無作為抽出的なバランスを重視したかった。


この姿勢はとても大切だと思う。なぜなら、声が大きい人の意見が、その後ろにいる大勢の被害者の声を、かき消してしまうかもしれないからだ。


例えば医療では、がんなどをはじめ様々な病と闘う患者さんが『患者会』を作って活動しておられる。それぞれの抱える『病』について正しい知識を社会に広めるためだ。しかし「患者会に所属したくない」という患者さんも多い。それは結局、声の大きい人の声しか届かないから、なのではないかと思っている。


そして、もう一つ。原稿化されたインタビュイーの事実チェックの際に、実名にするのか、変更や削除して欲しい部分はあるのかなどを丁寧にきき、できるだけ希望に添う形にしたそうだ。


本を読んだ時に伝わってきたけれど、私も何度か取材を受けたからよくわかる。村上さんの、取材対象者の人権を守ろうとする姿勢には並々ならぬものを感じる。


私には、報道に関して、良い経験と辛い経験の二つの経験がある。その二つの経験を通して、報道は被害者やご家族の声を、社会に届けて欲しいと願っている。


理由は二つ。一つは、報道によって傷ついたけれど、報道によってそれ以上救われたからだ。もう一つは、被害者に必要とされる「こころのケア」は私にとって「あなたは異常」と振り分けられることでしかなかったからだ。


例えば、こころの専門家だけではなく医療者は「認知の歪み」という言葉を使う。けれど「認知の歪み」とは、ずいぶんと傲慢な考えに思えてならない。まるで「小さく生きよ」と言われているようで息苦しく感じた。


極端な言い方をすれば、専門家の考える物差しを外れたら、とたんに「異常」扱いされる。そんな理不尽な感じがしてならなかった。そもそも「こころの専門家」というフィルターに通された私の姿は、本当に私なのだろうか?


私は私のこれまでがあり、その延長で今を生きている。例え何らかの困難に陥ったとしても、私は私でしかないのにーーーーーーーー


あの頃私は「地上に出ていきたい」といつも願っていた。もしも今より社会の理解がすすめば、そこにとどまっている理由がないと思っていたからだ。


久しぶりに『アンダーグラウンド』を読んでいたらこれまでの出来事が蘇ってきた。あれから私はいろいろな経験をしたけれど、20年たってまたここに戻ってきた、という感じがする。何度読んでも『アンダーグラウンド』は響くものがある。色あせない。やっぱり村上春樹という人はすごいな。

2015/03/23

地下鉄サリン事件から20年  村上春樹さんと勝俣範之先生をつなぐもの

3月20日、地下鉄サリン事件について書いたら、書いた私がびっくりするほどアクセスしていただいた。


地下鉄サリン事件の被害者です ー 村上さんのところ / 村上春樹 期間限定サイト


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事件のその後について、重要な情報をネットで見つけたので補足しておこう。


一つ目は、『アンダーグラウンド』をかいた村上春樹さんが、期間限定のサイトを開設しておられ、そこで被害者の方の意見が取りあげられたこと。二つ目は、私がこのブログをはじめたきっかけを与えてくれた勝俣範之先生がサリンサバイバーであったということだ。


まず一つ目の被害者の方の相談について。


被害者の方がおっしゃっていられることは、私が小さく産まれた子どもの支援に求めてきたことと似ている。


被害者の方がお願いしなかったら、私が村上さんにお願いしたいくらいだ。私は一度実名で手記を書いたことがあったけれど、訴えはじめたきっかけは村上さんの『アンダーグランド』だった。


超低出生体重児の育児 NHKの放送から生まれた広がり

『報道』と『インターネット』の力 マイナスの経験をプラスに変える


当事者の声を集めれば、サリンの被害と思われる共通の訴えがあることに気づく。短期的なものでは「目がチカチカする」「視界が狭くなる」「寒気がする」「鼻水がとまらない」「咳き込む」など。ある程度時間がたってからだと「疲れやすくなる」「記憶力の低下」などだ。これらすべてが私には「心」の問題、PTSDだとは思えなかった。


サリン事件後『こころのケア』ばかり注目されたけれど、危惧していた通り、サリンによる後遺症の研究や医療的支援はおざなりにされてしまったようだ。当事者同士でつながる場がないことも切実な問題だと思う。


もしも、サリンによる後遺症までもが、個人のこころの問題にされていたのなら、被害者の方は救われないだろう。


著作権の問題も頭をかすめたが、期間限定サイトということで、まもなく閉鎖されてしまう。しかし被害者の方にとったら一生に関わる切実な問題。すでに長い月日が流れてしまった。20年という大きな節目が過ぎたら、人々の関心が薄れていくかもしれない。医療関係者の方々に、被害者の切実な声が届いて欲しいと思い一部転載させていただきます。是非、多くの皆様にアクセスして読んでいただけたら、と思います。


※    ※    ※



地下鉄サリン事件の被害者です ー 村上さんのところ/村上春樹 期間限定サイト より一部引用


病院でさまざまな検査をしても何もわからないまま同じ症状を繰り返していたころは、心身ともにつらい時期でしたが、有機リン中毒という古くて新しい中毒の問題だとわかってからは、気持ちのうえで楽になりました。ただし、医療の面では、PTSDばかりが強調され、有機リン中毒は無視される現状に不安を感じます。


サリンの発がん性は不明とされていますが、私は4年前にがんを患っています。それは特殊な例なのか、そうではないのかもわかりません。有機リン中毒で生殖障害が起きることは、動物実験では明らかになっているそうですが、サリンの被害者はどうだったのか、そんなことも気になります。


20年を経た今なら、比較的容易に調べられると思いますが、被害者同士をつなぐ場はなく、関心をもつ研究者もいないようです。20年目のアンケートでたずねられたのはPTSDのことばかりでした。私は、自分が経験してきたような言葉になりにくい身体症状が気になります。


あれから20年目の自分の状況を、村上さんにご報告したいと思っていたときに、「村上さんのところ」が開設されると知り、相談させていただくことにしました。『アンダーグラウンド』に登場した人や他の被害者たちは、今どうなのか気になります。村上さんから呼びかけていただくことはできませんか。



※    ※    ※



二つ目は、勝俣範之先生のブログ。


ツイッターやブログを書いておられる医師は多いけれど、最近はあまり読むことがなくなってしまった。例えば「抗がん剤は効かない」と主張する近藤誠医師を批判する医師は多い。しかし、中には『近藤誠』と呼び捨てにしておられる方も。


人の心を通過する時には、無意識の許可がいるものだ。いくら科学的に正しいことでも、人生の先輩に向かって呼び捨てなんて・・・。私の心はいつしか、彼らの言葉を受け付けなくなってしまった。もう見たくない、聞きたくない、知りたくない、と思ってしまうのだ。


でも勝俣先生は特別。同じように近藤医師を批判していても、「本当に患者さんを思うあまり、一生懸命なんだろうな」と思えるのだ。なぜ、勝俣先生の言葉は私の心にストレートに飛び込んでくるのか、不思議に思っていた。


やはり、勝俣先生ご自身が壮絶な経験をされていたそうだ。


私も前置胎盤で出血が止まらず、不安な夜をすごした。その時に、勝俣先生と同じように看護師さんが神様のように思えたし、がんで亡くなった医師の友人のことを思い出して泣いた。お葬式の時に、医局の先輩が泣きながら悼辞を読んでおられた。彼は昼間、スタッフを気遣い笑顔を絶やさなかったそうだ。


けれど、私は恐怖で眠れぬ夜を過ごした時に気づいた。私は末期のがんではないからまだ可能性がある。それなのに、これほどの恐怖が襲ってくるなんて。彼は・・・夜一人の病室できっと地獄だったに違いない。死への恐怖と闘っていたのだろう。


勝俣先生のブログを読んだ時に、彼を思い出してやはり涙がこぼれてきた。


※    ※    ※



僕はサリンサバイバー 2015年3月18日 腫瘍内科 医勝俣範之のブログ より一部引用


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真っ暗な天井を眺めていたら、本当に恐くなりました。このまま自分の体が消滅してしまうことが恐怖でした。
その日はほとんど眠れませんでした。


夜には、看護師さんが定期的に巡回してきてくださるのですが、それが本当に癒しを与えてくれました。
「どうですか?」
という単純な言葉ですが、この優しく語りかけてくれる言葉に、患者さんは本当に癒やされるのだということを知りました。
看護師さんが、血圧を測り、検温をし、出て行こうとするときに、「もっとずっといてほしい」と思いました。


私は、がんの診療医であり、私が入院した同じ部屋で患者さんを何人も見送ってきました。
この部屋に入院した患者さんも、自分と同じような思いをしているのだとしたら、がん患者さんたちは、もっと長い間入院して、毎日この恐怖と闘っているのだと思ったら、涙が出てきました。


自分は、病気と闘う患者さんたちの心を少しでも理解しようとしてきたのか?
明日をも知れないがん患者さんの気持ちに少しでも寄り添おうとする気持ちはあったのか?
自分は、その患者さんたちを少しでも癒すことができたのだろうか?



※    ※    ※



村上さんは被害者の方への回答に「『アンダーグラウンド』だけはいつ読んでも思わずどこかで涙が出てきます」と書いておられた。私にも村上さんがそういう気持ちを込めおられることが伝わる。だから、20年たっても、被害者のことを忘れないのだ。


私は「こころの専門家」と言い合いになった時に、こう言ったことがある。


「あなたの言葉は私の心に響かない」。


目の前にすわっていた「こころの専門家」は、私がそう言った時に、はじめて悲しそうな顔をしていた。悲しいという感情があったなんて。


村上さんの回答と勝俣先生のブログを読んで、あの時のことを思い出している。


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村上春樹氏 地下鉄サリン事件被害者の相談に答える 2015年03月21日 夕刊アメーバニュース 


地下鉄サリン事件発生からちょうど20年となる3月20日に、村上春樹氏の期間限定公式サイト「村上さんのところ」で地下鉄サリン事件の被害者からの質問が掲載された。


 投稿者は60歳の女性。当時、事件に遭遇するも、症状は軽いほうだと思っていたという。しかし、その後、原因不明の様々な症状が出てきたという。


 そして、事件から15年後、犯罪被害者給付金を受けるにあたって、当時のカルテを取り寄せたところ「有機リン中毒」と書かれていたことが判明。さらに、北里研究所病院で改めて検査を受けると、「中枢神経機能障害」と診断されたという。


 つまり、本人がそれだと自覚しないまま、サリン中毒の後遺症がいまなお続いているということなのだが、投稿者は「医療の面では、PTSDばかりが強調され、有機リン中毒は無視される現状に不安を感じます」と訴えている。また、サリン中毒がその後の人体にどう影響を与えるかに関心を持つ研究者が少ないという現状についても危惧しているという。


 そんな投稿者に対し、村上氏は、


「サリン事件について、被害者のみなさんの身体状況について、医学的に立体的に研究する機関のようなものがきっと必要なんでしょうね。それについての調査研究をしている民間団体もあるようですが、そういうことは国がきちんと窓口を作り、系統立ててやるべきだことだろうと僕は思います。医学的資料としても、将来的に大切な意味を持つことですし。被告人たちを裁判にかけ、刑事罰を与えてそれで一件落着、みたいになってしまうのがいちばんまずいですね」


 と回答。医学的な研究を国家レベルで進めるべきだと主張している。


 村上春樹氏といえば、地下鉄サリン事件の被害者やその関係者を取材した『アンダーグラウンド』をいう著作があるが、この作品だけは自作の中で唯一「いつ読んでも思わずどこかで涙が出て」くるのだという。


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病人と聞きホームに降りた後… サリン被害の医師が告白 朝日新聞デジタル 3月20日(金)


《20年経った今、当時のことについて記しておきたいと思います》


 オウム真理教による無差別テロ「地下鉄サリン事件」から20年。日本医科大武蔵小杉病院(川崎市)の腫瘍(しゅよう)内科医、勝俣範之さん(51)は今月、ブログで被害体験を初めて詳しくつづった。《我々はこの事件を忘れてはいけないし、あのようなテロを許してはならない》


 あの朝、地下鉄日比谷線に乗ったのは偶然だった。勤務先は当時の国立がんセンター中央病院(東京都中央区)。前夜に千葉県の病院で臨時の宿直をした。そこからの出勤途中、八丁堀駅で「病人がいます」という車内放送があり、救護しようとホームに降りた。


 人だかりの中心に、口から泡を吹いて倒れている女性がいた。人工呼吸、心臓マッサージ。だがその間も、次々と20人近くが倒れていく。「臭いもしないし、音も煙も無い。とにかく大変な事態だ、と」


 15分後、救急隊に引き継ごうとした時、立ち上がれなかった。視界がみるみる暗くなる。勤務先に救急搬送され、「毒物が原因だと思う。調べてくれ」と同僚に言ったのを覚えている。


 その日の午後、報道で「サリン」を知り、8カ月の長男を抱いて駆けつけた妻に「もしものことがあったら、子どもを頼む」と言った。夜、一人きりの病室で死の恐怖におびえた。症状は治まるのか。後遺症は?――。神様に祈った。


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2015/03/20

『アンダーグラウンド』と『こころのケア』 地下鉄サリン事件から20年 

今日はオウム真理教の起こした地下鉄サリン事件のあった日。


アンダ-グラウンドアンダ-グラウンド
(1997/03/13)
村上 春樹

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内容紹介

1995年3月20日の朝、東京の地下でほんとうに何が起こったのか。同年1月の阪神大震災につづいて日本中を震撼させたオウム真理教団による地下鉄サリン事件。この事件を境に日本人はどこへ行こうとしているのか、62人の関係者にインタビューを重ね、村上春樹が真相に迫るノンフィクション書き下ろし。

内容(「BOOK」データベースより)

1995年3月20日の朝、東京の地下でほんとうに何が起こったのか。同年1月の阪神大震災につづいて日本中を震撼させたオウム真理教団による地下鉄サリン事件。この事件を境に日本人はどこへ行こうとしているのか、62人の関係者にインタビューを重ね、村上春樹が真相に迫るノンフィクション書き下ろし。



1995年3月20日、20年前のこの日、私は夫とバハマに滞在していた。海で泳いでホテルに帰ってきたら、顔なじみになっていた女性従業員が近寄ってきてこういう。


「あなた達の国で、すごい事件が起きたのよ。すぐにテレビをみて!」。彼女は「オウム」といっている気がするけれど?


テレビをみて二人で呆然とした。テロ事件の首謀者として、オウム真理教の教祖、麻原彰晃氏が紹介されていたからだ。


それまで私の中では、オウム真理教といえば、JR西荻窪駅の近くでゾウのお面をつけ、不思議なダンスをしている人達、というイメージしかなかった。西荻や吉祥寺には、アジアの雑貨を扱う雑貨屋さんが多い。街に溶け込んでおり、どちらかというとほのぼのとした雰囲気で、危険とはほど遠かった。


テレビでは大勢の人達がうずくまって苦しそうにいているけれど、あのダンスとまったく結びつかない。


当時カナダに住んでおり、日本のニュースはほとんど入ってこない。何があったのか知りたくて、送られてきた週刊誌などを読んでみた。でも、センセーショナルに恐怖を煽るような内容ばかりで、なぜ凶悪な事件を起こすに至ったかが、いっこうにみえてこない。


数年後、夫がたまたま買ってきた村上春樹さんの『アンダーグラウンド』という本を手にした。


『アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件の被害者とご家族のインタビューを収めたノンフィクションだ。


社会を揺るがす大事件が起きた時、このような優れたノンフィクションが生まれればいいと思う。その時何が起きたのかを、冷静に記録し後世に伝えるために。きっと、時間がたって、はじめてみえてくるものがあるだろうから。


一番記憶に残っているのは、最後に登場する、旦那様を亡くした若い女性。事件当時、おなかにお子さんを宿していて、マスコミが一番関心をよせたそうだ。


「郊外住宅地のどこででも見かける若い幸福そうな奥さんにみえる。別れ際に何か言おうと思ったのだけれど、『元気で幸せにいてください』としか言えなかった」。村上さんはそのように表現しておられた。


その一文で、彼女の悲しみの深さを表現する。さすが村上さんだと思った。今の時代のトラウマやPTSDというものを的確に表現していると思ったからだ。


第二次世界大戦のように、皆が同じ大きな悲しみを背負ったわけではない。どんなに大きな悲しみを抱えていても、外からはなかなかみえない。だから彼女と、ご家族の悲しみが静かに伝わってくる。


私は彼女の姿を一度もみたことがない。にも関わらず、お子さんと二人、手をつなぐ幸せそうな姿が頭に時々浮かぶことがある。


昨日読み返してみたら、驚くことに彼女は、警察やメディアなどの対応に不満をもらしているし、最後に「涙を流した」とも書いてあった。


私の記憶がいつの間にか書き換えられていることに気づく。


私が彼女を覚えていたのは、亡くなった旦那様のご実家でお子さんを産んだからだった。「旦那様のご実家で」というところに、彼女と同じように結婚したばかりの私は引きつけられた。


義理のご両親は、地方都市で農家を営んでおられたため、事件後も仕事を続けておられたそうだ。私はお父様の言葉を今でも忘れたことがない。


「やらなくてはならない農作業があるから私達はやってこれたようなものです。(農家の仕事は)休みなく続きます。それで気が紛れるから頑張って生きていけるんです。そうやって働けば体が疲れるし、疲れればぐっすり眠れます。ノイローゼだ睡眠薬とか私達は言っていられません。農家というものはそういうものなのです」。


義理のご両親や他のご家族は、彼女と産まれたばかりのお子さんを温かく見守るのだ。その様子に、ほっとするとともに、「悲しい」「苦しい」というネガティブな言葉は消去され、いつしか「幸せ」なイメージだけが心に刻みこまれたようだ。


私が彼女が「幸せであるように」と、20年間願い続けてきたこともあるだろう。そうさせたのは行間から滲み出る村上さんのやさしさなのかもしれない。


このエピソードは精神科医の井原裕医師が『精神科臨床はどこへ行く』おっしゃっておられたことを裏付けているように思う。


人は深い悲しみの中にある時、自分の周りの時間だけ止まったように感じる。だからといって、いつまでも時間を止めたままの状態にしてしまうと、ずっとそのまま。取り残されてしまう。PTSD を乗り越えていくには、今まで当たり前にしてきた日常生活を、少しずつ取り戻していくことが必要です。だから、昔の人達が大切にしてきたような暮らし、人と人とのつながりが大切なんですーーーーー


私が『アンダーグラウンド』のようなノンフィクションが好きなのは、どこか疫学調査に似ているからだ。


人は、自分の力だけではどうしようもできない大きな困難に陥った時、それまでの自分自身の生き方が試される。多くの被害者の方の証言から、そういうことを感じた。


オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた年、阪神淡路大震災も起きている。この年から、「こころのケア」が盛んに必要だといわれ、いつのまにかブームのようになっていったように思う。


『アンダーグラウンド』の中でも「こころのケア」の重要性に触れており、最後に村上さんと精神科医との対談も収められている。「こころのケア」が社会に認知されたきっかけの一つは、この本だったのかもしれない。


しかし、「こころのケア」という言葉ばかり一人歩きし、そこで何が行われているのか、皆知っているのだろうか?


私が特別な専門家のケアなど必要だと思わなくなったのは、自分自身の経験と、「アンダーグラウンド」の女性とご家族を思い出すからだ。


先日『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』が届いた。今度はこの本から、どんな世界が私の前に広がるだろう。



2015/03/13

『こころのケア』は誰のためにある 「被害者はお金になるんです」

お休み中なのだが、考えていることがありブログを更新することにした。


なぜだかわからないけれど、このブログは、お役所の方や専門家とよばれる方々が読んでくださっているようだ。だから書いておこうと思ったのだ。


昨日、あるご遺族と話した。あの大川小学校の「こころのケア」を教えてくれた人だ。「『こころのケア』っていった時点でそれは嘘、偽善なんだ。やっていることは精神科につなぐだけでしょう?そもそも、できるはずがない」と言っていた。


ある薬害を訴えておられる団体の代表の方も私に言っていた。会には、いろいろな売り込みがあるそうだ。しかし、断ると悪口を言いふらされることもあり、困っておられた。


世の中には、傷口に塩を塗り込むようなことをする人がどうやら本当にいるらしい。


「被害者はお金になるの」とその方が私に言っていた。


私はある社会学者の方の調査に協力させていただいたことがある。その方とは多少の行き違いがあったけれど、良い発表をしていただいたととても感謝をしている。


その方が私から聞き取り調査をする時に、言っていた言葉を今になって思い出す。


「私達専門家は、話をきかせてもらう方から、体験を『搾取された』と思わせないように配慮することがとても大切なの」。


全国自死遺族連絡会の田中幸子さんのブログに、またまた腹立たしいことが書いてあったので、転載させていただく。こころの専門家の方々もこのブログを読んでおられると思うので、考えていただきたいのだ。


私にも、同じような苦い経験がある。


社会学者の方に発表していただく前の出来事だった。ある人に協力したら、まるでその人を有名にするため、売り出すために利用されたような悔しい思いをしたことがあったのだ。


でも考えてみれば不思議だ。


同じように、聞き取り調査をしたのに、一方には失望し一方には感謝しているからだ。この違いはどこからくるのだろう?


最近思う。「搾取すると思わせないように」とは人権を守ることなのかもしれない。


田中さんのブログを読んで、忘れていたはずの苦い記憶が蘇る。


お子さんを亡くして失意にある方を踏み台のように利用した専門家がいるなんて。そしてその著名な専門家は、全く悪いことをしたとは考えていないし、まわりも、とがめないなんて。是非、田中さんのブログにアクセスしていただき、コメントにも目を通して欲しい。


これが我が国の『こころのケア』と、『専門家』の現実なのだ。


※    ※    ※



閉会になった子供を亡くした親の会  2015-02-07 田中幸子のひとりごと ~自死で子供を~


子供を亡くした親の声を集め本にしたり
      論文を書いては 学会誌に掲載し、有名になった女性教授

       藍の会を立ち上げてから間もなく
   難病の子供を支える活動の講演会があり、主催者の一人に誘われて参加しました
   2006年7月 仙台 
      講演会が終わってから知り合いの主催者の一人が教授に紹介してくれたので
      自死遺族の会を主催していることを話したのですが
  8月に仙台で年に一度の集いがあるから、
その時にライオンの像の(三越)前で待ち合わせてランチしましょ!といってくれたのを信じて、 
 その会に参加している遺族に話したら、はがきで申し込みをしなければダメよ!といわれ
         はがきで申し込みをしたが返事はなく
     でも 約束したからと思い  12時前から三越前で待っていたら
         教授がでてきたので「田中です、お待ちしていました」とあいさつ

そしたら
    「あ! 私は午前中に参加の方々とランチするので、田中さんは一人で食べたら午後参加して」といわれた
    
仕方がなく 一緒に来てくれていた息子さんを亡くした遺族(藍の会のメンバーの遺族)
    と近くにいた知り合いの議員とランチ
         
 1時3分くらいに会場に行ったら  ドアは開かず
  (ガラスで中が見える会場) コンコンしたら 
 はがきを出したほうがいいよとアドバイスをくれた遺族が出てきて
       プライバシーの侵害になるから途中参加はダメですと先生が言ってますから
            参加できませんといわれ

     息子を亡くした母親二人は 会場を後にしました

    その時 私は息子を亡くして9か月足らず(わかちあいの会を開催して3回目でした)

それからお手紙も出しましたが「頑張ってください」ハガキがきましたが

 最初のハガキを出したときに参加申し込み規則として400円?の切手を貼って出したのですが
    それは戻ってはきませんでした

                    
私は
    そのことがあって 私は  その教授を信じていません
       そして調べてみたら
           子供を亡くした親の会を通じて知り得た内容を論文にして
     日本で初めて・・とか  子供を亡くした親の気持ちの第一人者とか
         そんな人なんだと  距離を置いてきました

    学部長?学長?になったから
   忙しくて 会は開催できないとかで  やめた ということは
         私の耳に入りました

    しかし  震災の遺族支援ということで

        グリーフケア団体に呼ばれて  石巻とかに講演にはきていました
   震災の遺族についても
      見識を述べられて  様々な本や新聞にも取り上げられていました

     被災地で子供を亡くした親の声を聞いたこともないのに

        偉そうに  語っている記事に   

      あ・…やっぱり・・・と  納得しています



※    ※    ※



           
2015/03/11

亡くなった方を忘れずに

今日は、大震災のあった11日。


あのとき、大川小学校で何が起きたのかあのとき、大川小学校で何が起きたのか
(2012/10/24)
池上 正樹、加藤 順子 他

商品詳細を見る


大川小学校の悲劇が気になり、ダイアモンドオンラインの特集を読んでいる。ご遺族の言葉はどれもが重く、胸が苦しくなることも。


『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』という本を読んでみたいと思い早速注文した。


鍵を握るとされるある人の証言がどうしても気になる。住民の証言からも、私にはその人の証言が真実だとは思えないからだ。


この本の表紙の写真をみれば誰もが思うはず。大川小学校は低い土地にある。にも関わらず地震から津波が到達するまでのおよそ50分の間、子ども達は校庭にとどまっていたそうだ。


なぜもっと早く、もっと高い場所に行かなかったのーーーー


しかしその一方で教員にも多数の犠牲者が出ている。この事実をどう捉えたらいいのだろうか。


私には教員や行政が津波を想定してこなかった、あるいはできなかった証のような気がしてならない。だから今でもこの悲劇から一体何を学べばいいのわよくからない。


一ついえるのは、行政や学校が、裁判を恐れずに、もっと正直にもっと速やかに、何があったかを話せればよかったのに、ということだった。


ところで3月9日、フジテレビの「スーパーニュース」で「”老人ホームに落とし穴格安…1カ月で病院になぜ妻は死にかけた?」という特集をみた。


問題が多いとされる施設では、日常的に掃除がいきとどかず、介護の知識のあるスタッフも不足しているようだ。調べていくと経営する会社が利益確保のために、現場に人手とお金をかけないようだ。


これから、高齢化で行き場のないお年寄りは増えていく。誰もが、同じような被害にあうかもしれない。被害にあっても、行政は頼りにならない。もしも、頼れる家族がいなかったら地獄のようだ。


「人の命や健康は右肩上がりで成長するのか」という私の疑問に対する答えのような内容だった。


「経験がないのに、参入しようとする企業が多い。すべてとはいわないけれど、株式会社というものは、どうしても株主のほうを向いてしまう」ということを取材されたジャーナリストがおっしゃっておられた。


その言葉になんだか泣けてきた。


重久さんの「利他主義」や「自社の利益だけでなく、社会をよくするために誠実な仕事をするのだ」という言葉がまた頭に浮かんだからだ。


どうして私は自分の父を信じることができなかったのだろうか・・・。


この日良いことが一つあった。日付がかわったばかりの深夜にある方からメールをいただいた。


何年ぶりだろう。本当に久しぶりだった。


私がブログを書き始めたのは、いつかその人が見つけてくれるかもしれないからだった。


「見つけてくれたんだ・・・」。メールにその人の名前をみた時、涙がこぼれた。


その人はある報道機関に所属している。先日書いた事件を伝える報道の中で、唯一といっていいほど、あるご遺族の意見を丁寧に伝えておられた報道機関だ。私はすべての報道に目を通していたら、よく覚えていた。こういうところに届いて欲しいと思いながら、書いていた。


あるものをみて欲しいと伝えた。『エビデンス』だ。


夫が「松本清張の推理小説の良いところは、事実と証拠で追い詰めていくところ」と私に言っていた。


今なら夫が何をいいたかったのかよくわかる。


あの時は、松本清張の小説のような出来事が、まさか私の身の上に起きるとは想像もしなかった。


だから夫は、医学部にお世話になることにしたのだろう。医学論文もまた、そうやってかいていくものだから。


私は数学が苦手だったけれど、唯一好きで良い点数がとれたのが『証明』だった。ほんの少しだけ才能があったのかもしれない。私も『エビデンス』が持つ力をはじめて知った。それまでバラバラの点にみえていたものが、一本の線へとつながるのだ。


ふと思う。この日、メールをいただいたのは、亡くなった方の力かもしれない。どうしても、伝えたいことがあったのかもしれない。


ああ、本当によかった。


少しはやいけれど、春休みにしようと思う。


ブログを少しの間お休みしようと思います。
2015/03/09

『こころのケア』と『報道』と

『私の履歴書』の第26回は、「アルジェリア人質事件」に触れていた。


やっぱり読みすすめていくうちに、目頭が熱くなってしまう。


※    ※    ※



第26回『私の履歴書』人命救出の願い届かず 犠牲者の遺志 全社員で継ぐ から引用


様々な方が犠牲になった。高い技術力を持ったベテラン、海外現場を知り抜いたスペシャリスト。フットワークのいい若者、そして私と幾度となくアルジェリアの様々な現場に立った同僚。日本人以外の犠牲者も同じように多彩な人たちだっただろう。多様な人たちがひとつのチームになり。大きなプロジェクトの完成に向け、働いてきたのだ。


それぞれの人生を中途で絶たれた無念、遺された方の失意を思うと今も言葉が出ない。


事件直後から横浜のみなとみらいの本社には弔問や献花のため、たくさんの方が足を運んでくださった。山のように積まれた白い花の中には、「遠い異国の地で資源国のために働いて皆さんを誇りに思います。安らかにお眠りください」と書き添えたものもあった。


弔問に訪れた方々の気持ちは、犠牲者を慰めただけではなく、日揮の社員にもう一度勇気を与えてくれたように思う。事件直後、私は社員が海外の現場に赴くことに不安を感じるのではないかと懸念していた。だが、まったく違った。皆さんの励ましで、社員は海外プロジェクトに以前にも増して意欲を燃やすようになった。

(中略)

この事件では日本政府に全面的な支援を頂いた。外務政務官を現地に迅速に派遣し、アルジェリア政府との交渉に当たっていただいたことや、犠牲者や生存者の帰国の際し政府専用機を手配していただいたことなど、本当にありがたかった。



※    ※    ※



『こころの専門家』による『こころケア』は、いったいいつから「良いもの」「なくてはならないもの」とされるようになったのだろう。


私も書かれている通りのことを思ってきた。私と家族のこころが癒やされたのは、見知らぬ方々のあたたかな励ましの言葉。そして政府専用機を出していただいたことなどだった。


途上国での資源開発とは、一国の未来を背負うようなプロジェクトだ。それゆえ機密も多く、ベールに包まれた部分も多い。娘の私も仕事の内容を詳しく教えてもらったことがなかった。


それらを考えると、『報道』の力は大きかったように思う。私が父や父の仕事に不信を抱いて生きてきたのは、正しい情報を教えてもらっていなかったからだとわかったからだ。


自己紹介に書いたように、私はどちらかというと、『報道』というものを信じていなかった。その私が、感謝するようになったのだ。


特に事件から一ヶ月後に放送された、NHKの特集には励まされた。見知らぬ方々が、亡くなった方達を思い、ネットに綴った言葉を紹介したからだ。


アルジェリア人質事件が問いかけるもの 2013年2月15日 NHK おはよう日本

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事件から1か月となります。これまでにおよそ1万人が献花や記帳に訪れています。事件は私たちの心に何を投げかけているのでしょうか。


『日本トラウマティック・ストレス学会』という学会がある。大規模な災害や事故、事件などが起きる度に、惨事ストレスへの対応について提言してきた専門家集団だ。『アルジェリア人質事件』でも、報道機関に対し、緊急の声明を出した。


私はこの声明を目にしてとまどってしまった。家に閉じこもりがちだった私に希望を与えてくれたのが、『報道』だったからだ。


【人為災害】アルジェリア人質事件に関する緊急のコメント 日本トラウマティック・ストレス学会

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実名報道には確かに行き過ぎたものもあり、批判があって当たり前だと思う。


しかしご遺族も様々な思いを抱えておられる。必ずしも会社の対応に満足されている方ばかりではない、ということを報道ではじめて知った。テレビなどで実名で訴える、ということはそれなりに覚悟をしてのことだろう。多くの方に知って欲しいと願ってのことだ。


このような声明が出されることで、報道が萎縮してしまっても困ると思う。多様な意見を社会に出す、ということもまた、報道の役割の一つだと思うからだ。


少数の意見がかき消されない世の中であって欲しいと願う。


逆に私は、『こころの専門家』の方々に知って欲しいことがある。『こころのケア』で救われた人ばかりではない、ということだ。

2015/03/06

『こころのケア』は誰のためにあるのか  大川小学校の悲劇

もうすぐ3月11日がまたやってくる。3月11日が近づくにつれ、「悲しみはまだ癒えない」というような報道もきこえてくる。


ある人に「最近、被災地の『こころのケア』をめぐって、すごいことがあったんだよ」と教えてもらった。


「宮城県石巻市にある『大川小学校』のことを知っているでしょう?」とその人は言った。


もちろん知っている。自分の息子も小学生だから、忘れたことがない。


もしも私が津波に流されたお子さんの親だったら・・・きっと同じように毎日海をさまよっているかもしれない。そして同じように「どうして駆けつけられなかったんだ」と自分を責め続けるだろう。そう思いながらテレビをみていたから。


※    ※    ※



巨大津波が小学校を襲った ~石巻・大川小学校の6か月~ 2011年9月14日(水)放送 クローズアップ現代


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東日本大震災で多くの児童が犠牲になった小学校がある。巨大津波によって全校児童108人のうち、74人が死亡・行方不明となっている宮城県石巻市立大川小学校。地震発生から避難準備を開始、津波が到来するまでにおよそ50分の時間があったにも関わらず、高台への避難の途中に、子どもたちは津波に襲われた。なぜ、幼いいのちがこれほどまでに失われたのか。


二度とこのような痛ましい事態を起こさないために何が必要なのか。学校関係者、遺族、そして地域住民への丹念な取材を通じて、震災から半年たって明らかになってきた「あの日」をたどり、学校という「幼いいのちの場」を津波災害からどのように守っていくのかを考える一助としたい。




※    ※    ※



『全国自死遺族連絡会 』の田中幸子さんのブログに書いてあるそうだ。今、一部のご遺族が裁判をしておられる。(裁判に至るまでの経緯は、ダイヤモンド・オンラインの特集に詳しく書かかれています↓)


※    ※    ※



大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~ 池上正樹 [ジャーナリスト] ダイヤモンド・オンライン

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【新連載】「避難途中に大津波」はウソだった? 石巻市教委の矛盾で明らかになる“大川小の真実” 【第1回】 2012年6月25日


「1人1人、いろんな事情や立場があります。昨日も夜遅くまで話し合って、最後の最後まで考えてきました」

(中略)

 6月16日、石巻市立大川小学校の児童遺族有志は、同市教育委員会に質問書を手渡した後、仙台市に場所を移して記者会見を開き、当時小学6年生の次女を亡くした佐藤敏郎さんが、こう苦渋の思いを語る。


地方の町の狭い地域の中では、当事者間の利害や人間関係が、複雑に絡み合う。最初に口を開いた佐藤さんもまた、子どもの遺族の1人でありながら、質問書を手渡した相手と同じ教育界の現場で教壇に立つ、隣の女川町の中学校教師だ。


「市教委にはお世話になった先生もたくさんいる中で、このような場に出るのは、大変つらいです。でも、子どもたちは寒空の下、先生たちの指示を待って、ずっと校庭にいた。黒い波にさらわれていった子どもたちのつらさや恐怖を思えば、大人が立場的につらいからを理由にしてはいけない。次の段階に進むためには、思っていることを話さなければならない。教員だからこそ言えることがあるのも確かで、その役割を果たそう。いまがそのタイミングだと思いました。


 学校は、信頼されるべきところだと信じています。今日ここに来ることで、いろんな人や、生徒たちにも迷惑をかけているのは承知しています。申し訳ないと思っている。でも、きっとわかってくれると信じ、我々はそれなりの覚悟と決意を持って、カメラの前に立ったんです」



大川小児童の国賠請求訴訟、第1回弁論始まる  原告遺族、現場検証とA教諭への証人尋問を申請 2014年5月19日


学校管理下にあった児童74人、教職員10人が、東日本大震災の津波の犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校。この惨事を巡り、児童の遺族が「もし、先生がいなかったら、児童は死ぬことはなかった。明らかな人災である」として、県と市を相手取り、懲罰的慰謝料など総額23億円の損害賠償を求めた国賠訴訟の初公判が5月19日、仙台地裁(高宮健二裁判長)で開かれた。


※    ※    ※



どうやら、ご遺族は『こころのケア』にこころを痛めているらしい。


どういうことなの?


私はびっくりする事実を知った。


なんと、裁判をしている相手が、ご遺族のところに『こころの専門家』を一方的に派遣しているそうだ。


「考えてみてよ。訴えている相手が、ケアの専門家を派遣しているんだよ。あり得ないでしょう?」


今まで被災地では様々なサポートをする人を募集をしてきたそうだ。でも、被災地で暮らす方々が本当に必要としている日常生活の支援や、ちょっとした介助をするような人を募集してもなかなか集まらないそうだ。


それなのに、『こころのケア』を募集するとなぜか『こころの専門家』だけはすぐに集まるそうだ。


今は、大学生が『こころのケア』をするNPO団体をつくって活動するくらいだから・・・。


でも、私もいつも思っていた。例えば中川聡さんの勉強会に多くの人達が参加するのは、中川さんご自身に奥様を亡くしたり、会社を清算したという辛い経験があるから。「この人だったら」と皆思うのだろう。だから、社会経験の乏しい大学生に、簡単にこころを開く被害者や遺族がいると私にも思えない・・・。


自治体が募集をして集まる人は当然カウンセラーや臨床心理士。そして精神科医と呼ばれる方々。


想像するだけで、ご遺族が困っている姿が目に浮かぶーーーーーー


突然見知らぬ人達が「お焼香をさせて欲しい」と押しかけてくる。「あなたにはこころのケアが必要だから」と。


しかし、彼らに心を許したところで、その先に何があるというのだろう。『こころの専門家』と呼ばれる方々は観察するように、空気のように接する。一緒に泣いたり、怒ったり、笑ったりはしない。しかも、一番つらくなる夜には話し相手にはなってくれない。悲しみは、いつ、突然襲うとも限らないのに、派遣されてくる『専門家』は土日、祝日はお休み。営業時間も決まっている。


もしも私だったら、と考え言葉を失う。


ご遺族や被害者の方のケアをするには重久さんの「私の履歴書」にあったように、「恋愛のように高度なコミュニケーション」が必要。でもこれは誰にでもできるものではないし、中途半端なケアならないほうがいい。まして悲しみの淵にある人の心を、さらに傷つけるようなケアなら、やめて欲しい。


そもそも、ご遺族が行政に望んでいるのは、良いことも悪いことも含め、詳細な報告であり、「心のケア」ではない。逆にいえば、聞き取り調査を行い、情報公開をすることこそが「こころのケア」になるんだと思う。


ダイアモンド・オンラインの連載を読むと、行政は裁判を恐れたのだろうか。情報を出そうとしない姿勢が隠蔽ととられ、いつしか取り返しのきかない亀裂を生んでしまったように思う。


それにしても、遺族や被害者とよばれる立場になったら、こういうケアにも「ありがとう」と言わないといけないのだろうか?「親切の押し売り」という言葉が頭をかすめる。


本物の『こころの専門家』なら、「こういうケアはやめましょう」というはずだと思う。しかし、そういうことがいえる人は『こころの専門家』にはならないものだ。


どうしても何かしたいと思うなら、掃除や買い物を手伝うとかいろいろあるはずなのに・・・。


ご遺族や被害者に、こんな言葉をいわせてはいけない。


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

田中幸子のひとりごと ~自死で子供を~  酷い支援がここにもあった  2015-02-24  より引用



書いては消してを繰り返し・・・・

   今日は朝から教育委員会に電話

午後は猫さんの講演を聞きに行く

   宮城県教育委員会と石巻市教育委員会が協力して
      臨床心理士を含めて6人で
石巻市立の小・中学の児童生徒をつなみで亡くした親の支援をするという事業
   が 
昨年、震災後3年過ぎて活動を始めた
 当面3年だが6年・9年と継続することが決まっているということでした

   訪問しているという
 二人で・・

   断られることも多いそうだ

    宮城県内で児童生徒が亡くなっている地域はたくさんあるのになぜ石巻だけ

     大川小学校が 市や教育委員会を相手に 闘っているから・・・だそうだ

      教育委員会を相手に闘っている親が
  教育委員会から派遣された人に心を許すだろうか
     遺族の気持ちを逆なでしていると思う
 断られても断られても何度も訪問する…という考えが
     あまりにも自分勝手だと思う

  ご焼香に…ご焼香に・・と何度も言う

   断られる方も大変でしょうが
2人に訪問されて 断る遺族の気持ちもしんどいと思う

   ご焼香という行為が絶対的な善意だと思う気持ちが傲慢

   ご焼香なので、家にあがることが前提

  突然見も知らない人がきて、ご焼香をさせてくださいと言われて
     快くあげるだろうか
 私は不愉快になると思う

    家にあげて焼香してもらったら

   お茶もお菓子も 出さなければならない

     亡くなった子供の話もしなけれなならない

    嫌がる遺族に 頼んでもいないのに
 なぜ無理やり個人情報を集めて 訪問するのか・・・

  こんなに遺族のことを思い努力しています・・というアリバイのための事業としか思えない

  ただ話を聴くだけ・・・・だという

   追及したら

 専門機関にもつなぐという

    専門機関って?どこ?

医療機関!

医療機関?内科・眼科・?

   んんん・・・・・精神科・・…

    教育委員会と臨床心理士が 文科省という後ろ盾の下に
     子供を亡くした親のケアといいながら

 無理やり訪問し、調査し 精神科につなぎ

    遺族をどうしたいのだろうか

 明日以降~教育委員会の担当者が連絡をくれる予定

今日は担当者不在のため……お話にならず・・・でした

遺族の支援?夜中も聴いてくれるの?
いいえ5時までです
 日曜日・土曜日・祭日お休み?
はい!
 9時から5時まで平日のみ?
はい!
個人の情報を教育委員会から伝えたら遺族が問題にする
市役所も同じ

だから 責任を個人の私にするために  私に情報を求めたのだと思う

  教えない   

静かに話人だが
   カウンセラーや精神科医にありがちな話し方で
  イラつく人だった
 
感情をあらわさない・・……手法

 人間としてのあたたかさのない人

      こんな支援が税金を使い行われている

   なんと傲慢で卑しい人たちだろう



*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
2015/03/05

キリン社長もうならせた「よなよなエール」のネット販売術

今日はブログを更新しないつもりだった。けれど、「ヤッホーブルーイング」の快進撃について面白い記事をみつけた!


(こちらは以前私が書いた記事↓)

ヤッホーブルーイング『よなよなエール』が大出世!


私はカナダでくらしていた時に夫に「日本のビールと違って、おいしいぞ」とすすめられ、クラフトビールを飲んだ。確かに、それまで飲んだどのビールよりもおいしい!と思った。こんなおいしいビールは日本にはないだろうな、とあの頃ずっと思っていた。


星野リゾート社長の星野佳路氏もアメリカでクラフトビールのおいしさに気づいたそうだ。アメリカというと、食事があまりおいしくないイメージがあるかもしれないけれど、クラフトビールはとてもおいしい。アメリカだけでなくカナダにも、小さなクラフトビールメーカーがたくさんあって、どのビールを飲んでも本当においしいのだ。


日本にも一時期、クラフトビールブームがあった。けれど、すぐに下火になっていった。記事にかいてあるように、まだ発展途上で品質にばらつきがあったからだ。


夫にキリンとの提携のニュースを教えたら言っていた。「『ヤッホーブルーイング』の素晴らしいところは、大量生産しても味が一定で、なおかつ価格が安価な点にある」。


確かに、クラフトビールはおいしいけれど、小さな瓶で700円というビールが普通だったりする。それを考えると素晴らしい!


でも、どうやって快進撃に結びつけたのかな、とずっと考えてきた。日本にそれほどビールが好きな人がいるとは思えないからだ。


記事を読んだらうなずくことばかり。「お客様一人一人を大切にする」「クレームをいってくれるようなお客様こそ大切にする。そういうお客様は発進力がある方だろうから」という考え方はいいな。ホームページをつくっても、お金をかけ、きれいにつくることが目的ではなく、お客さんとのやりとりを大切するというところも。


つまりは、『心』があるか、お客様のほうを向いているか、ということだからだ。


そして「ヤッホーブルーイング」は、自分の会社だけでなく、「日本のクラフトビール業界全体を活性化させた」という点も好きなところだ。


この考え方はよく考えたら、日経新聞の「私の履歴書」で重久さんが繰り返しおっしゃっておられた「自社の利益だけでなく、社会をよくするために誠実な仕事をするのだ」という「利他主義」という考え方なんだろうな。そして私はそのような考え方の企業が好きなんだろう。


そういえば「スノーピーク」も同じような会社だ。


新潟県三条市から生まれたグローバル企業 『 スノーピーク * snowpeak』


翻って「薬」や「ワクチン」はどうなんだろう?私はこの考え方が「薬」や「ワクチン」にも当てはまると思う。


被害を訴えておられる方は、『お客様』と何が違うのだろう、と思うからだ。なぜなら被害者は、ワクチンを製造する製薬企業やすすめる医師を信じたからこそ、接種したのだ。それなのに、なぜその方達にむかって「カルト」などという言葉を使うのだろうか。


私が考えてきたこと、いいたかったこととは、そういうことなのだろう、と記事を読みながら思った。


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キリン社長もうならせた「よなよなエール」のネット販売術 ダイヤモンド・オンライン 3月5日(木)8時0分配信


長野県の地ビールメーカー「ヤッホーブルーイング」の躍進がめざましい。いまや売上高は、大手4社とオリオンビールに次ぐ第6位。増産につぐ増産に対し設備投資リスクを抑えるため、キリンビールと業務・資本提携を結び、生産を一部任せるまでに業績を伸ばしているのだ。その原動力となっているのがネット上での売り上げだ。(ジャーナリスト 夏目幸明)


● スキー場で頭に雪が積もるまで売ったが 売り上げが伸びなかった過去


 1994年、酒税法の改正により、日本も世界にならい、小規模ビールメーカーが営業できる地盤が整った。これにより90年代後半、日本各地に「地ビール」メーカーが出現。観光地などに大手4社にはないビールのラインナップが一斉に並ぶこととなった。


 ちなみに、日本の大手ビールメーカーが出している商品の多くは「ラガー」と呼ばれる、低温で比較的長時間発酵させたタイプ。一般的に、スッキリした味わいが特徴だ。だがビールには、常温・短期間で発酵させた「エール」があり、こちらは華やかな香りや豊かなコクが特徴の商品が多い。そして林立した地ビールメーカーは、大手との違いを出すため、こぞって日本ではあまりなじみがなかった製法・味のビールを世に出した。


 「ヤッホーブルーイング」の「よなよなエール」も、そんな、日本では珍しいタイプのビールのひとつだった。元はといえば、星野リゾート社長の星野佳路氏が、米国留学時代に日本では珍しかったエールビールを飲んでうまさに惚れ込み、わざわざ長野県佐久市を拠点にメーカーを起業して製造したもの。味の評判はよく、創業と同時に地ビールが大ブームになったこともあり一気に売り上げを伸ばした。


 だが当時、星野氏は地ビールの一大ブームの到来になぜか危機感を深めていたという。現社長で、その後のネット戦略などを立案した井手直行氏が当時を振り返る。


 「僕は一営業に過ぎなかったので、製造が追いつかず、問屋さんから『商品をあるだけ持ってきてほしい』と言われる現状に、何も危機感を抱いてはいませんでした(苦笑)。しかし、すぐに星野が言っていたことの意味を知ることになりました。地ビールメーカーのビールは、販売価格が高く、日本ではまだ歴史も浅かったため、価格に味のクオリティが伴っていない商品も多かったのです。すぐ世の中に『地ビールは高いのにおいしくない』といった雰囲気が醸成され、弊社の売り上げも一気に急降下しました」


 つくっても売れない。売れなければ会社の雰囲気も悪くなる。営業は「製造に力がない」となり、製造は「営業が売ってこない」と言う。仲間たちは次々と退職して行った。往年の勢いは見る影もなかった。井手社長が2001年頃のエピソードを話す。


 「年末年始のスキー場でビールの試飲会を行い、観光客に商品を売ろうとしました。それくらいしかできることがなかったんです。スキーと温泉が楽しめるような観光地の土産屋さんの店頭で販売するんですが、雪が舞う中に何時間も立ちっぱなしだから、身体の芯まで冷えて、頭の上に雪が積もるんですよ(笑)。もちろん、そうまでして売っても『焼け石に水』なのですが、何もしないよりはマシでした」


どの業界でも、長期的な成功を目指す場合、在庫リスク、人員の過不足などを引き起こす短期的な急上昇は、むしろアダとなる場合が多いのだろう。


● 「チームひまわり」「【重要度 低】」… ファンを増やす個性派メルマガが当たった


 この惨状からの快進撃には、きっかけがあった。同社は1997年から楽天市場に出店しており、04年から楽天での販売に力を入れ始めたのだ。


 「最初は出店してホームページをつくったもののほぼ放置状態。お客様は1ヵ月に数人程度でした。ところが、楽天の営業担当の方が『よなよなエールはポテンシャルがある』とおっしゃるので、私は『ほかに打開策もないし』と考え、力を入れてみたんですよ」


 力の入れ方が興味深い。彼らはお金をかけ、きれいなホームページをつくるようなことはしなかった。お客様一人ひとりと強く結びつく、それだけを念頭にホームページを運営したのだ。



 最初はごく一般的な「ポイント2倍キャンペーン実施中」といったメールマガジンを書いたが、次第に、売っている人間の人柄が滲み出るような文章を書くようになった。例えば社内で「内勤の人いない? 」「内勤って何かカタイ雰囲気だよね」という会話があって、お客様に対応する内勤の部署の名称が「チームひまわり」になった話。


 さらにはメールマガジンに冗談が満載されているため、副店長からメールのタイトルに【重要度 低】と付けたらどうかとアドバイスされた話…。もちろんビールの紹介も書いた。2年間熟成させた「英国古酒」など、今までにない商品を販売した時は「日本のビール文化を豊かに」といった思いを熱く語った。


 顧客からの意見やクレームにも真摯に対応した。例えば缶が凹んでいたと言われたら、代替品を送るだけでなく、新商品と手書きの手紙を同封したりした。ビールに対する考え方の相異で、メールマガジンに顧客からの意見が届いた時は、まずは手間をかけさせてしまったことを丁寧に詫び、自分たちがなぜこのビールをつくったのか、なぜ説明にこう書いたのかを説明。自分たちが日本のビール文化をいかに盛り上げたいかを縷々書き連ねた。顧客は感心して、そのやりとりをブログに載せたいとまで言ってくれたという。


積極的に議論をしてくる顧客は、同時に、発信力があることを意味するのだろう。「こうして、一人ひとりファンを開拓していくと、熱い思いを返してくださるお客様が現れ始めました。例えば、三重県のお客様に、ご注文いただいた商品とは違う銘柄の商品をお届けしてしまった時です。私がクレームのお電話をとり、お詫びをして、すぐに代替品をお届けする旨をお伝えすると、お客様は寛大に許してくださっただけでなく、『醸造所の見学はできるんですか? 』とおっしゃるんです」


 「もちろん『ぜひいらっしゃってください! 』とお話ししました。すると、私は長野にいらした時のついでに、くらいのつもりだったのですが、お客様は翌週、三重県から工場見学のためだけにいらっしゃるというのです。私は宿泊施設を手配し、弊社のビールが飲めるレストランをご紹介し、さらには醸造の責任者に、醸造所をご案内してもらえるよう手配しました。お帰りになった時、季節がちょうど春だったので、お客様が『三重で終わったサクラがまた見れた~! 』とおっしゃったこと、固い握手を交わしたことは、今でも忘れられません」


 そのやりとりもメールマガジンに書いた。醸造者と顧客との強い結びつき、一人ひとりを大切にする誠意のこもった姿勢は、イコール、商品の味にも誠意がこもっていることを暗示した。


 他業界の話だが、インターネットの時代が来て、テレビのゴールデンの時間帯の番組は苦戦ぎみだ。消費者は、多少手間をかけても「自分にぴったり寄り添ってくれるサービス」を選択する。その点ゴールデンの番組は、老若男女にウケなければならず、制作側は今や「該当するコンテンツが「世界と日本」をネタにした番組や「食」くらいしかないと嘆く。時代は「マス」から「個」へと大きく動いているのだ。


● 自社のこだわりが伝わる商品を 次々と開発


 ビール業界にも、同じ傾向があった。一人ひとりが、自分に寄り添ってくれる商品を探していた。そして、同社のよなよなエールは、消費者の中でも「俺はこれが好きだ」とわざわざ買ってもらうべき商品だった。今までのラガービールのようにキンキンに冷やして飲むのでなく、常温より少し冷やし(同社は13度が理想としている)、香りを楽しみながら飲む。消費者には、商品と軽く触れ合うのでなく、商品に惚れ、リピートしてもらう必要があった。


だから、一人ひとりのファンを開拓していく手法は当たった。「逆に、観光客の方たちへの販売は、拡大するのをやめました。物珍しさでその場では買っていただけるのですが、リピートに結びつかなかったのです」(井手社長)。


 ビールのラインナップも、一部の人から熱狂的に支持される商品や、自社のこだわりが強く伝わる商品を出した。例えば「インドの青鬼」は、インディアペールエールというスタイルのビール。「植民地のインドで暮らす英国人の為につくられたもので、長期間に及ぶ海上輸送中に品質劣化をさけるため、通常より多くのホップを加えていたことが好まれ、そのままビアスタイルとして確立したとされる」という説明とともに売られる、非常に苦みと香りが強い個性派だ。


 大手ビールメーカーは、広くテレビや雑誌で広告を打ち、老若男女多くの方たちに「何となくおいしいんだろうな」と思ってもらえる販売手法を取る。これが「マス」のやり方だ。だが「ニッチ」の市場では、ヤッホーブルーイングという企業や、メインブランドであるよなよなエールを強く愛してくれる顧客を開拓する必要があった。ふたを開けてみれば、簡単なマーケティングの原理だ。


 「ただし、こう説明すると簡単なことかもしれませんが、実際は大変でしたよ。なぜって、すごく時間がかかるんです。この手法がとれたのは、やはり、ボクらが自社のビールを愛し、それを楽しんでくださるお客様に敬意を持っていたからです」。井手社長は、こう振り返る。


 こうして顧客を増やしていくと、彼らは、1対1の対応をさらに進化させていく。


 例えば、パブを借り切ってよなよなエールのファンのイベントを開催し、いつもメルマガを書いている社長が、ファンと触れあいを楽しんだ。いまはパブでは人数が入りきらなくなり、軽井沢などで大規模なイベントを開催している。その延長線上に、興味深い企画を用意した。彼らはローソンだけで販売する新商品『僕ビール、君ビール。』が販売されるタイミングに合わせユーストリーム上でファンを巻き込んだイベントを開催したのだ。井手社長が話す。


 「個性的でセンスがいい友人をイメージした、かえるのキャラクターを描いた缶が特徴的な商品です。そこで『かえる捕獲大作戦』と銘打って、選挙の速報のように『中野区で捕獲~』などと、ファンの皆さんと楽しんだんです」


 これが、ローソン史上に残る売り上げを記録した。一人ひとりのファンの獲得は、ついに、市場で認められるほどの大きなムーブメントに結びついた。彼らはネットを利用し、ニッチからマスへのブレイクスルーも果たしてしまった、と言えるだろう。


● 「ビールは人を楽しくしないといかん」 キリン社長もうならせた「愛の伝道師」


 いまは、多忙もあってなかなかメルマガを書けない井手社長だが、それでもファンに「ヤッホーブルーイングは変わった」などと言わせないだけの活動をしている。「例えば、楽天さんの『ショップ・オブ・ザ・イヤー』を受賞した時です。社員が書いてくれているメールマガジンのネタにもなっていますが、毎年、仮装して三木谷社長と一緒に写真撮影させてもらっています。最初に仮装した時は、係の方に『どなたですか? きょうイベントで何か催し物をやる方ですか? 』と聞かれ、なかなか会場に入れていただけませんでした(笑)。しかし、ふざけているように見えて、真剣なんですよ」


 井手社長は自分を「愛の伝道師」と名付け、仮装している。少しでも興味を持ってもらい、ホームページを見て「この人たち、どんな企業なんだろう? 」と興味を持ってもらえば、そこには、消費者の個性と必死で寄り添おうとする企業姿勢が、ちょっと冗談めかしつつ、強く打ち出された文章が並ぶ。


 企業らしく、カッコイイ「思い」ばかり打ち出すことはしない。そうではなく、笑いをとりに行くとか、自分をさらけ出したり下げてみるなど、ちょっとふざけて消費者の興味を惹いた上で思いを打ち出す。すると顧客に「なるほど、こいつら笑えるヤツらだけど、ビールにはこんなこだわりがあるんだな」と伝わる…そんな戦略だ。


 商品も、さらに個性を追求した。ビール「前略 好みなんて聞いてないぜ SORRY」は、銘柄名を聞くだけで、彼らの尖った姿勢が何も変わっていないことをマスに訴える力がある。


 こうしたニッチからマスへの売り方は、各業界へ伝播していく可能性がある。少なくともビール業界では、大手が彼らヤッホーブルーイングから学ぼうとしている。ヤッホーブルーイングは14年にキリンビールと業務・資本提携を結んだ。このあと、井手社長がキリンビールの中野本社に赴くと、キリンホールディングスの三宅占二社長(当時)は社員たちにこう話した。

 
「やっぱりビールは人を楽しくしないといかんよな。君たちも(コンビニやスーパーの)のバイヤーさんへ持っていく資料をつくるとき、マジメな顔で、パソコンににらみをきかせ、周りが凍りつくような感じで仕事してないか? そうじゃなく、こういうふうに楽しくせんと! 」


 それは「マス」への対応だけでなく、自分の個性を打ち出せ(=「ニッチ」にも対応せよ)という、社員へのエールだったに違いない。キリンビールとヤッホーブルーイング間では、人材交流も盛んに行われており、キリンの社員がヤッホーブルーイングへ学びに行くことも多い。ネットで商品を売る時の、新しい手法とみてよいだろう。


夏目幸明

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2015/03/04

『私の履歴書』を読んで その3 日本の医療の素晴らしさ

『私の履歴書』を読んで その2  グローバル化と熾烈な競争 の続き


重久さんの『私の履歴書』には繰り返し出てくる言葉がある。「自社の利益だけでなく、社会をよくするために誠実な仕事をするのだ」という言葉だ。私は最終回にかかれていた「利他主義」という言葉を全く知らなかったけれどよい言葉だと心から思う。


第27回 人に役立つ仕事 世界で 「利他主義」の心でともに発展 生きる道 より引用


最近、中国や東南アジアなどを訪れると、大気や河川の汚染、道路や空港の渋滞、住宅や医療の不足、劣悪な衛生環境など深刻な都市問題を目の当たりにする。そうした問題の解決はまさにエンジニアリングの仕事であり、人の役に立つ仕事だ。これこそ日本や日揮の生きる道になると確信している。


日本全体を見渡すと、最近は少子高齢化、人口減少など問題ばかり指摘されるが、街の住みやすさ、便利さ、食の安全、治安など日本がトップクラスのよい社会であることは間違いない。私は今も年間数十回の海外出張に出かけ、外国の街を歩くのも好きだが、やはり日本はすばらしい国だと感じる。


日本のよさ、日本人の美質を経済や社会の活性化にどうつなげるかが、若い世代に与えられた課題だ。今の若い人たちをみていて一番気になるのは、耐える力の弱さだ。何か試練があると折れてしまう人が多いようにみえる。


韓国に在住していた30 歳代の初め頃、私は中村天風を知った。結核にかかったのを機に真理を求めて世界の思想家を訪ねて歩いた末、ヨガの聖者と出会い、悟りを得た人物だ。病や貧乏などに苦しむ人を救おうと「心身統一法」を考案、天風会という組織を設立し、多くの人に影響を与えた。


とりわけ私は天風の「利他主義」の考えに深く共鳴した。エンジニアリングを儲けるためにだけにやるのなら、手抜きにも走りかねない。「人のために役立つものを提供しようと」という気持ちがなければ、企業や国家を永く繁栄させるよいプラントはできないし、誠実な仕事は必ず多くの人々に届くものだ、という信念を抱くようになった。



今、国は「医療を産業に」と考えている。しかしその前にやらなければならないことがあるはずだとずっと考えてきた。日本の医療には日本にしかない良さがある。けれど、それをどれほど多くの国民が気づいているのだろうーーーーー


私の友人は、地方の国立病院でがん医療にも長いこと関わってきた。


自宅に遊びに来ても、病棟に残してきた患者さんのことをいつも心配している。「あの時、こうしたらよかったかもしれない」と私の目の前で、サラサラとペンを走らせ、私に説明したこともあった。


まだ若いのに、もうすぐこの世を去らないといけない患者さんだそうだ。


地方の国立大学病院には、末期のがんの患者さんをはじめ、重い病を抱えた患者さんが押し寄せてくるのだそうだ。そのため、一人の医師が抱える仕事の量と中身は一言では言い表せないほど大変なようだ。心を病んでしまう若い医師も多いという。


私がこのような活動をするようになったのは、彼の存在が大きい。


民主党政権下ではがんの患者さんとご家族のために、がん診療連携拠点病院に『相談窓口』を整備した。彼が喜ぶかと思って「相談窓口ができたのよ」と知らせたら、以外なことに「そのような窓口は僕には必要ありません」といわれた。


彼は、自分の患者さんを、がん難民にさせないよう、最後の最後まで努力しているのだ。驚くことに、明日どうなるかわからず、悩んで眠れないほど苦しんでいる患者さんには自宅の電話番号だけでなく、携帯番号まで教え相談にのっていたのだ。「だから相談する窓口はいらない」というのだ。


精神科やカウンセリングを紹介しても、患者さんがまた外来に戻ってきてしまうから、いつの頃からかそうすることにしたようだ。


そういえば・・・あるエピソードを思い出した。


末期のがんで余命宣告を受けた患者さんのために臓器移植をしてくれる病院を探し出し、急いで手配したことがあった。手術が無事成功した患者さんの病院に駆けつけ、手を取り合って喜んだと言っていた・・・。


ところが、ある時、ある検査を患者さんにしたら、患者さんの意識が戻らず、彼は責任を感じ辞表を書いたことがあった。私が大野病院事件の時に、裁判所にかいた手紙を彼に読んでもらった時に、私に教えてくれたのだ。幸運なことに意識が戻ったそうだけれど、私はこの話を思い出すといつも泣いてしまう。


日本のがん医療は、彼のような勤務医が社会のみえないところで命を削って支えている。彼がしてきた仕事は、重久さんと同じように立派な仕事なのに、社会にはなかなか見えない。


「体がもたないから、もっと楽でお給料のよいところにいけばいいのに」といったら「それでは理想の医療を患者さんに提供できなくなります。僕の外来にくる患者さんは経済的に大変な人も多いから、お金の心配をぎりぎりまでかけたくありません」といわれてしまった。


私が近藤彰さんの闘病記にショックを受けたように、医師だけでなく患者さんの声がなかなか社会に届かないという構造的な問題も依然として横たわっている。だからこそ本当は彼のような医師にがん医療を語って欲しいし、改革などについても提言をするべきだと思ってきた。しかし実際は彼のような医師の意見はなかなか汲み上げられず、中央にいる一部の人達の意見で物事が決められていくような気がしてならない。


私は、日本の医療の素晴らしいところは、彼のような医師が、地方の公立病院にいることだと思ってきた。お金や名誉のためでなく、患者さんのほうをむいて誠実に仕事をしていることだ。


間違いなく彼のような医師は日本の宝だと思う。


世界を目指すのならば、彼のような医師が、第一に報われる日本であって欲しいと心から願う。もしも日本の医療が激しい競争にさらされ、彼のような医師がいなくなってしまうなら、何のための改革なのかわからない。