2015/04/30

斎藤貴男さんの『子宮頸がんワクチン事件』が発売されました その2  対立構造を生むもの

斎藤貴男さんの『子宮頸がんワクチン事件』が発売されました の続き

せっかく良い本が発売されたから応援したい。私が良いと思った部分を紹介したいと思う。


子宮頸がんワクチン事件子宮頸がんワクチン事件
(2015/04/24)
斎藤 貴男

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●「子宮頸がんワクチン副反応原因究明チーム」


まず、なんといっても第一章『論争』。HPVVに慎重な立場の西岡久寿樹医師が立ち上げた研究班の豪華な顔ぶれに圧倒された。同時に、誰が、何と、闘っているのかわかるような気がした。


厚労省によるHPVワクチン接種の積極的勧奨見合わせから十ヵ月ほどが経過した2014年3月、西岡氏が自ら率いる日本線維筋痛症学会として田村憲久厚生労相(当時)に副反応の実態調査を求める要望書を提出したのがふりだしだ。


西岡氏はそのまま、年度が切り替わった翌4月、本格的な「子宮頸がんワクチン副反応原因究明チーム」を、自ら公明党の元衆議院議員で、厚労省などを歴任した坂口力氏(1934~)とともに代表理事を務める一般財団法人難病治療研究振興財団内に立ち上げた。メンバーは以下のとおり。


【代表】

西岡久寿樹

【副代表】

横田俊平 (横浜市立大学名誉教授)
松本美富士(東京医科大学医学総合研究所客員教授)
伊藤健司 (防衛医科大学校内科学膠原病・アレルギー科講師)
臼井千恵 (順天堂大学医学部精神科医准教授)
岡寛   (東京医科大学八王子医療センター教授)
長田賢一 (聖マリアンナ医科大学准教授)
堺春美  (元東海大学教授)
高柳広  (東京大学大学院医学系研究科免疫学教授)
中島利博 (東京医科大学医学総合研究所教授)
西岡健弥 (順天堂大学脳神経内科准教授)
平井利明 (東京慈恵会医科大学神経内科教授)
山野嘉久 (聖マリアンナ医科大学 難病治療研究センター准教授)

【ゼネラル・アドバイザー】

坂口・元厚生労相

【メディカル・アドバイザー】

黒川清  (政策研究大学院大学大学院教授・日本学術会議元会長)
珠玖洋  (三重大学大学院医学系研究科病態解明医学講座教授)
服部信孝 (順天堂大学医学部神経内科教授)

【コンプライアンス・アドバイザー】

郷原信郎氏(弁護士・元東京高等検察庁検事)


コンプライアンス・アドバイザーに郷原信郎氏という布陣には、このチームが既存の国策に対抗する性格を有しているだけに、かなりのインパクトがある。



斎藤さんも指摘しておられるように驚くのは『ヤメ検』として有名な郷原弁護士が参加しておられたことだ。


●横田俊平医師の証言 「友達が去っていった」


もう一人私が注目したのは副代表の横田俊平医師。横田医師は日本の小児医療の権威のお一人だ。斎藤さんは、横田医師に2014年11月にインタビューをしている。


横田医師の専門はリウマチや膠原病。横田医師ははじめに、リウマチや膠原病は専門医の数が少ないこと、その一方で近年、こどもの患者増えていることに言及される。


「(近年増えているこどもの患者さんは)若年性の線維筋痛症なんですね。リウマチと違って関節がやられるわけではないし、血液の検査でも異常がない。今の社会のもとで、育った経緯のなかでその子の性格の問題が出てきて、思春期に入り、家族から離れていくときにいろいろなトラブルを抱え込む、と。ですから僕らの治療は精神的なサポートが中心になったりする。よい薬もありませんしね」。


斎藤さんは、「この当たりの感覚が(西岡医師とは違って)『小児科医なのだろう』」と表現しておられた。


私はこどもの頃の主治医だった著名な漢方医、王瑞雲先生のおっしゃったことを思い出す。「アトピーなどの疾患は治療法を巡り家族がもめてしまう。だから小児科医は、目の前の患者だけでなく、家族をもみないといけないのよ」。王先生と同じように、横田医師の言葉の端々から、誠実で温かなお人柄が伝わってくる。


この後、横田医師は「これまでの患者さんと明らかに違う患者さん達が増えている」と証言しておられる。大変興味深い。


「(2012年の一月に、やはり全身痛の子を入院させたところ)まず、生理がとまった。繊維筋痛症ではあまり止まらないのですが。そして幻覚や幻聴。なにか変だねと言っているうちに、今度は計算ができなくなったとか、そういう子が十人ほども集まってきて」


調べると全員HPVワクチンを打っていた。患者さんを診ているうちに、ワクチンにたどり着いた。その患者さん達を紹介したのが、西岡医師。お二人で「何かがおかしい」と話したそうだ。


横田医師は、翌年に定年が決まっていたため、急いで臨床症状をまとめたそうだ。研究するには、大学に所属していないと費用などの点で、大変だからだ。


報告をまとめる時には、神経内科や小児科、児童精神の医師も参加した。その中には、黒岩義之医師という著名な医師も。


「(黒岩義之医師は)私が書類を持っていってお話ししたときには、『ああ、そう』みたいな感じだったんですよ。でも、患者さんを二人診た段階で、『これは由々しい問題だ』というメールをいただきました」。



斎藤さんが「横田先生は日本小児科医学会の会長もしておられましたね」と尋ねると先生は悲しそうにこのようにおっしゃった。「ああ、私と同じだ」と身につまされる思いで読んだ。横田医師のお気持ちが私には手に取るようにわかる。なんだか泣きたくなる。


「発言し出してから、親しかった友人たちが、忠告してくれながら、去っていくんです。『あいつらはワクチンには反対だ。先生もお立場をわきまえて。発言力がある方が、こういうことを口を出しちゃいけません』。でも、発言力があるから口を出すわけで。いずれわかってもらえるとは思いますけれども。


ワクチンはよいものだと、私は考えていますよ。それで予防できる病気は予防すべきだと信じています。それだけに、ワクチン全般がお母さんたちに信頼されなくなるのが困る。もはやそういう段階にきているんです。


実は僕も、小児科医学会の会長だった当時は、HPVワクチンを推進する側に名前を連ねていました」



小児科医はみんなおとなしいから、新しいワクチンが出るたびに、国に認めてもらえるまで、5年越しになってしまう。でも、HPVの場合は違った。産科婦人科学会が中心で、彼らはそれまでワクチンの導入など手がけたこともなかったはずだから、はじめは『やるなあ』と感心したそうだ。


「あれは、一年で通っちゃったでしょう。ずいぶん国会でロビー活動をして、専門家の会議を立ち上げたりして。『いやあ、小児科医も見習わないと』なんて、皆で言っていたんです。だから、余計に、そういうこどもたちを診てしまうとね」



『いやあ、小児科医も見習わないと』というロビー活動が本当に良いことかどうか。何回も紹介してきた動画をもう一度紹介しよう。簡単にいえばこんな感じだ。医療が産業になるということは、純粋に科学だけで決まっていくのではない。政治や経済と連動していくことを意味する。斎藤さんも危惧しておられたが、日本国民はただ主体性を奪われ、支配されていくかもしれないのだ。





●私が斎藤貴男さんにきいてみたかったこと


私が斎藤さんにお目にかかりたいと思った理由は、ロビー活動の実態に切り込んでくれるだろうと期待したからだけではない。もう一つ理由があった。斎藤さんは「日本をワクチン後進国にした」と批判されるMMR訴訟当時、活躍したジャーナリストのお一人だった。


2013年、風疹が流行し、『先天性風疹症候群』が社会問題になった。


この時放送された、NHKのクローズアップ現代で、当時の被害報道が批判されていた。この放送をみた時、違和感を覚えた。取材した記者は、恐らく被害者の誰一人にも取材せずに番組をつくったのだろう。民法ならともかく、公共放送であるNHKが、被害報道をこんな風にバッサリ切り捨ててしまっていいのだろうかーーーー

 
NHKクローズアップ現代 『風疹大流行 ~遅れる日本の感染症対策~』 2013年5月9日(木)放送

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実はこのとき、ワクチン行政の大きな転換がありました。予防接種を受けたあと、死亡したり後遺症が残ったりするケースが相次ぎ、1980年代から90年代にかけて、国は裁判で次々と敗れました。

「ばんざーい!」

それまで予防接種は受ける義務がありましたが、国は法律を改正し、受けるよう努めると個人の判断に委ねることにしました。

その結果、接種率が大幅に低下したのです。

 

私は息子が800gで生まれ、肺が弱かったため感染症の恐ろしさが身にしみている。街にある小児科には、息子を連れていけない。待合室で感染症に感染してしまうからだ。ワクチンをうつためだけに、あちこちの病院を渡り歩いた。息子が幼い頃は、被害報道を恨めしく思っていた。自分が精神医療の被害者になるまではーーーー


だから当事者である斎藤さんに、ご自身への批判について、どう思うかきいてみたかった。斎藤さんに、ジャーナリストとして、良いノンフィクションをかいて欲しい、という気持ちもあった。『クローズアップ現代』のように、どちらかをバッサリ切り捨て、対立構造をうむような内容でないものを、と願っていた。


斎藤さんはNHK のサイトにある短い動画をみて驚いておられた。「被害者はとても苦しんで、苦労したんですよ」とたった一言おっしゃった。


もちろん私も知っている。夫の友人の息子さんも裁判で認められた副反応被害者だからだ。だから『周産期医療の崩壊をくい止めるか会』にも参加したのだ。


あの時の私の言葉は斎藤さんを悩ませてしまったのだろうか。本の中では、そのあたりの揺れるお気持ちがかかれている。


国民の権利意識が高まり、個人防衛の側面が重視されすぎるようになったことが、欧米とのワクチンギャップを招いたとされる今日だけれど、筆者はまさにその過程で、おぞましいものを見ている。


お見舞いのことば

○○○殿(原文は実名)には予防接種を受けたことにより不幸にも障害の状態となられました。これは社会防衛のための尊い犠牲であり誠にお気の毒にたえません ここに予防接種法により生涯年金をお届けしてお見舞い申し上げます



MMRワクチンで重度の障害を負った女児が1993年に受け取った、厚生大臣名の書状だ。因果関係を認められた被害者に例外なく送られる文書である。亡くなった被害者の場合は、これが「お悔やみのことば」になる。どこまでも支配者の高みから、謝罪とか反省といったニュアンスを徹底して排除した表現には背筋が凍り付いた。


両親は泣いていた。書状を前に固まってしまった筆者に、父親が、「因果関係などないと逃げまくる人達たちを相手に苦労を重ね、やっと認定を得て、少しだけ、ほっとしたところだったんです。でも、それも束の間、どうして犯人の側にこんなものまで送りつけられなければいけないのですか。なんで、うちの子じゃなくちゃいかんのですか」と、声を詰まらせながら言った。



●被害者は『宝物』 ワクチンをより安全により確実なものへと導く存在


私が感じてきた違和感が斎藤さんの「どこまでも支配者の高み」という表現に凝縮されている。


夫や友人達は、免疫の研究に携わってきたけれど、このような表現を決してしない。「被害者は宝物のような存在。ワクチンをより安全に、より確実なものへと導いてくれる存在」という。


だから、「カルト」などの、冷たい表現を看過できるのは、結局は、被害者を一人の人格としてみていないというあらわれじゃないかと思う。


斎藤さんにお目にかかった時に、私は『電気新聞』のコラムの話をしたはずだ。


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「原子力村とよばれる人達の思いも様々だと思います。電気新聞という新聞は東電の社長や会長も目を通す業界紙だと思います。私の気持ちを理解し、コラムに書いて掲載してくれる、ということは、彼らに中に『悪いことをしたかもしれない』という気持ちがあるからだと思うんです。公人としては何もできないけれど、『もし、娘が罪悪感を持ったらどうしよう』とか、そういうことを考えてくれればいいと思います」。


確かそんなことを伝えたと思う。


この本を読むと、同じような構図がワクチンの推進にもあったことがわかる。推進している方々も思いは様々で揺れている。一枚岩ではない、ということだ。


いずれにしても、揺れる思いの方々がおられる、ということが社会に伝わることは良いことだと思う。


この前、被害者を受け入れる医療機関が記載された一覧表をみせていただいた。


これまではワクチン接種後に何らかの症状が出たとして、受け入れる医療機関はほとんどなかった。横田医師は、「お友達が去っていった」と嘆いておられたけれど・・・。横田先生のお友達の先生方にこの本を読んでいただき、よく考えて欲しい。


これからどんどんあたら新しいワクチンが開発されるだろう。


発想の転換をすれば、被害が出た時の受け皿が整備されるのだ。それも日本中に。世界中で、被害者のための受け皿が、これだけ用意されているのは、日本だけ。横田医師はワクチン反対派なんかじゃない。ワクチン推進のために力を尽くしておられる。


横田医師の名誉のためにも『子宮頸がんワクチン事件』が売れて欲しい!!


私なんか、『薬の嫌いなカルト』だとか人格を否定されるような冷たい言葉を投げかけられても、失うものがないからまだいい。でも、横田医師は我が国の小児医療に長年尽力されてきた医師だ。そのようなお医者さんを泣かせたらいけない。私は横田医師のお友達一人一人にお目にかかって説得したいくらいだ!!


夫と友人が言っていた「被害者は宝物」という言葉を思い出す。今度こそそういう世の中に、かわっていったらいいのにな、と心から願う。


最後に松藤さんのブログを引用させていただく。


人間らしく生きる権利 みかりんのささやき 2015-04-28

人権とは・・・・
私たち、全ての人が人間らしく幸せに生きるための権利。
人種や民族、性別や宗教を超えて、それらにとらわれず、万人に共通 した一人ひとりに備わった権利。

子宮頸がんワクチンの被害に遭ってから、人権とはなんだろうかと考えることがある。

世界人権宣言
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である
 第二条
いかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる


差別してはいけない。
医師も、患者に対して尊厳を持って接して欲しいと思う。
もちろん、とても良い医師もいるので、こういうことを言うのが適切でないところもあるのかもしれない。
でも、明らかに、ワクチンの被害だというだけで、声を上げただけで差別を受けてきたように感じている。

被害に遭い、娘の背中の痛みがひどくて、肩と背中が盛り上がって、少しでもその痛みを和らげてもらいたくていった整形外科。
ワクチン接種後一ヶ月経っていなかったと思う。
車椅子に乗って、すがった医師から怒鳴られて、
「こんなところに来たってダメなんだよ。なんでウチになんか来るんだ。そんなもの治せない」
と追い返され、家に戻った。

近所の、比較的大きな整形外科だった。
あれからもう、私はもちろん、その病院へは行かない。

その時から、人権ってあるようで・・・ないのかなと、思った。

娘が娘らしく、幸せに生きる権利。

歩けない人も、重い病気を抱える人も、病と闘いながらも幸せに生きる権利は必要なんだよ。
相手が幸せであるようにサポートするのは、医師という前に、人として大切だと思う。



※ 2017年5月追記 ロビー活動の実態について(ロビー活動を請け負った会社、担当者した方など)新たに判明した事実を掲載しました↓

HPVワクチン『ロビー活動』から『薬害裁判』へ 市民を利用し『社会運動』をしてきたのは誰なのか? その1 

『医療志民の会』について 『がん対策基本法』から『医療志民の会』そして『公費助成運動』『医学部新設推進』へ

私が探し続けてきた人は、新日本パブリック・アフェアーズの座間恵美子氏か?
2015/04/27

斎藤貴男さんの『子宮頸がんワクチン事件』が発売されました

数年前にまいた種が、今、少しずつ花を咲かせはじめている。先日の『うつを治したければ医者を疑え』に続き、もう一つ花が咲いた。

子宮頸がんワクチン事件子宮頸がんワクチン事件
(2015/04/24)
斎藤 貴男商品詳細を見る


ジャーナリスト、斎藤貴男さんの『子宮頸がんワクチン事件』が24日、発売された。


斎藤さんにお目にかかったのは昨年の夏。斎藤さんは、被害者や医師、そして関係者をもう二年近く取材しておられた。


お話をいただいた時、はじめはお断りしてしまった。


でも断った後私は悩んだ。被害を訴えている方達にとって、ワクチンが導入された経緯を詳しく知ることは、「心のケア」なるだろうと思ったからだ。私が、真実を探し求めて歩いたように、不条理な状況に置かれた理由を知りたいだろうと考えた。


斎藤さんのお名前で検索すると、東京電力を批判する本がヒットする。『電気新聞』のコラムで取りあげていただいたことがある私にとったら、斎藤さんは天敵のような立場のジャーナリストだった。


私は斎藤さんの経歴をみて、お目にかかることにした。


これはNHKで2007年(平成19年)に放送された『ハゲタカ』というドラマのワンシーン。巨額の不良債権を抱えて瀕死の大手銀行が、ハゲタカと呼ばれる外資系ファンドに不良債権を査定されるところ。ハゲタカは、銀行が抱える巨額の不良債権の正確な数字を導き出すため、コピー機を何台も持ち込んで、データをあっという間にコピーするのだ。


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(実際には、銀行が所有するビルには、暴力団事務所がテナントとして入っていたりするが)「なんとか上手くごまかせば、安く買いたたかれることはない」とみくびっていた銀行の幹部が青ざめるのだ。


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巨大な組織や巨額のお金が動くビジネスの実態を解明するには、正確な情報や数字を出さなければはじまらない。


「日本は情報公開が遅れている」といわれているが、日本でも、医療機関や製薬企業そして役所など、不十分ながら市民の求めに応じ、情報を公開する。


しかしただの一市民には、欲しい情報がどこにあるのかわからないし、たとえ開示されても制限があったりする。仮にすべて閲覧できても、膨大な資料から正確な答えを導き出すのは難しい。



本来であれば、利益相反問題などを監視するのは行政の仕事だと思う。「アメリカは、利益相反問題に厳しいから、違反があった場合は、州政府が住民にかわって、製薬企業を訴えてくれる」と、ある薬害被害者団体代表が私に教えてくれた。


羨ましい。日本ではとても望めない。


だから、最後の頼みの綱は、報道、ジャーナリズムだと思っていた。私は精神医療の闇をメディアに取りあげてもらうために、この10年間、血のにじむような努力をしてきた。しかし、製薬企業は、今のメディアにとったら大切なお客様。大きな収入源だ。だから、どこも取りあげるのに、躊躇する。


記者やジャーナリストを名乗っていても、ほとんど広報のような仕事しかしていない人も多い。そんな人を信じて正直に話したら、かえって返り血を浴びるような目にあう。


斎藤さんの経歴を拝見した時に、「もしかしたら、この人なら」と思った。


私から斎藤さんと出版社にお願いしたことが一つ。


「出版社とジャーナリストが『薬の副作用』を扱う時に、どれほど苦労するか、ということをきちんと書いてください。それこそが薬の副作用を、深刻な社会問題へと変えていく、一番の原因だと思うからです」。


本を開いた時に、気づいたことが二つあった。


私がお願いした約束がきちんと守られていることことと、このブログで繰り返し訴えてきた「神奈川県予防接種研究会」について触れられていることだった。特に、「神奈川県予防接種研究会」は冒頭の「子宮頸がんワクチンに関する主な出来事」という一覧表にも記されている。


本が都内の大手書店に並びはじめた21日、薬害オンブズパーソン会議と被害者連絡会が、記者会見をした。会見をみて私は驚いた。


2015/04/21 子宮頸がんワクチン推進派による声明は「事実に基づかない」 副反応被害者・弁護士らが抗議 ~推進派医師が被害者らに「醜悪である」などと暴言を浴びせていたことも明るみに | IWJ Independent Web Journal

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これは私が書いたブログ記事。(カテゴリー『利益相反』に、もっとたくさんの記事があります)



もしも私がロビイストなら 【臨床試験の基盤整備、患者・国民・社会との連携を推進するために】


『私はシャルリではない』 テロと真の友情


なぜ今、神奈川県が注目されるのか  〜『医療』とは政治や経済と深く結びついて動くもの〜


斎藤さんの本に書かれていることや、記者会見は私がお願いしたものではない。きっと、私が思っていたような疑問を、多くの方が感じておられたのだ。こども達には、法務省から出されている人権啓発の手紙が頻繁に配られている。そこにはネットでの言葉のマナーについてちゃんと書いてあるのに・・・。


法務省 人権擁護局フロントページ

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インターネットによる人権侵害に注意! 政府広報オンライン 


先日、某外資系製薬企業がまた子宮頸がん撲滅キャンペーンをはじめた。電車中が、広告で溢れていた。


私は反射的に背を向けていた。アメリカでHPVVの摂取率が低いのは、メガファーマの販売戦略に市民が嫌気がさしたから、と聞いたことがある。同じことが日本でも起きているのだろう。


この方法は、北風と太陽があるなら、間違いなく北風だと思った。彼らは人の心なんて、お金を出せば買えると思っているのだろうか。啓発やキャンペーンばかりでなく、補償のためにお金を使ってもバチはあたらない。そんなに儲けているのだからーーーー


そう思われても仕方がないことをしている。


「あなたが、何かを必死に伝えようとしていることはわかる」と、元NHK プロデューサーの「ひつじ」(津田正夫さん)さんに言われたことがある。


斎藤貴男さんの『子宮頸がんワクチン事件』は、まさに私が伝えようとしてきたこと、そのものだ。医療はもはや純粋に人の命や健康のためにあるわけではなく、産業になったのだ。


だからもしも、あなたやあなたの大切な家族が、その深い闇に放り込まれたら、容易に向け出せなくなるかもしれない。その事実を知って欲しい。


そして私も、斎藤さんがあとがきに書いておられるようなこと思い、願っている。


これ以上の不信をあおるなと、叱られるかもしれません。しかし、全体像を掘り下げ、オープンにしていく営みなくして解決の糸口は見いだせないのではないでしょうか。迂遠なようでも、それが一番の近道だと信じます。

(中略)

私達の社会につきつけられているのは、しかし被害者の叫びだけではありません。今度こそ、独自の判断で、将来の予防接種のあり方を構想していかなければならないのです。



最後に、私の声を届けてくれた集英社インターナショナルの編集者、松政治仁さんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。


斎藤貴男さんの『子宮頸がんワクチン事件』を、多くの方に読んでいただけたら、と思います。
2015/04/24

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 終わりに

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その6 の続き


『八甲田山雪中行軍遭難資料館』の記録の整理がやっと終わった。途中で後悔するほど大変だった。


八甲田ロープウェー株式会社

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でも、あれは、八甲田ロープウェーの駅の待合室で一人ですわっている時だった。上品なおばさまとお友達が私に話しかけてきた。


「私は八甲田ロープウェーの株主なの。ここに株主優待券が一枚あるから、よかったら使って。どうぞ」。


私はびっくりしてしまった。ロープウェーは高価な乗り物だ。周りには私の他にもお客さんも何人かいるし・・・。


すると隣にいた男性が私にこういう。「僕たちもどうですか?と言っていただいたけれど、皆シーズン券を持っているんだよ。せっかくだから使ったら?」。


結局、有り難く使わせていただくことにした。


本当は、コースの途中で転んで「助けて〜」と叫んで、すぐ後ろにいた男性に両板をはずしてもらったばかり・・・。怖くなって「もう二度と行きたくない」と思ってすわっていたのだ。


でも、再びチャレンジすることに。もしいただかなかったら、二度と滑らなかったかもしれない。


今度はさっきとは違うコースを滑った。


すると、ちっとも怖くなくて「ああ良かったな」と思った。せっかく青森まできたのに、帰ってしまうところだった。


だから、何かお礼ができたらいいな、と考えた。


八甲田ホテルについて書いたら、アクセス数が結構あった。


青森県八甲田山へ その3 『酸ヶ湯温泉』と『八甲田ホテル』


ホテルを選ぶ時に、個人の旅行記のほうが参考になる。私も、大きな旅行会社のサイトでなく、一般のお客さんのブログの写真などをみて、宿泊先を決めている。なぜなら、ホテルのサイトなどに掲載されている写真はプロがとっているから、実際よりもよくみえることがあるからだ。行ってみると、がっかりすることも。


八甲田山は夏も冬も自然が豊かでとてもよいところだ。もう一度絶対に行ってみたいと思う。その八甲田山を訪れた人が必ず立ち寄るのは、このロープウェーだと思う。待合室では高倉健さんの映画を流しているし、撮影の時の写真も展示してある。


『八甲田山雪中行軍の遭難事故』から学ぶことは今でもたくさんある。


軍隊という組織は、上官の命令には従わないといけない。遭難した神成大尉の悲劇は、今の官僚制度など、大きな組織が背負う運命に通じるものがある。組織に属してお仕事をしている方がみたら、胸に迫るものがあるのかもしれない。


息子のような子供がみたら怖いかもしれないけれど、私の歳になると、また違った感情がわき起こる。


無事帰還した福島大尉も、再び戦地に赴き40歳という若さで戦死してしまったからだ。結婚したのが37歳だから、結婚生活はたったの3年間。


幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その6

明治36年(1903)10月に山形補正第三十二連隊第十中隊長として山形に転任し、翌年10月に日露戦争に出征しました。明治38年(1905)1月28日、「黒講台の会戦」にて、降りしきる雪の中、指揮中に敵の砲弾を頭に受け壮烈な戦死を遂げました。40歳でした。

福島大尉は、同日付で陸軍少佐に昇進し、十六位に叙され、勲四等・功五級を受けました。



好きで死んでいくわけではない。


青森の地元の方は、「ソリなんて、猛吹雪の八甲田山では無謀だ。雪山を知らなすぎる」と今でもおっしゃる。しかし、当時のロシアの脅威を考えれば、戦争を想定した訓練という発想は、必ずしも無謀ではなく、むしろ必然だったように思う。


それではどうすればよかったのだろうか。


私には戦争という紛争解決手段に、そもそも限界を感じている。福島大尉のような日本の未来を背負うべき優秀な人材が、結局は戦場でちっていかなければならないからだ。


実際に当時の記録を目にすると、軍人さん達一人一人の想いが、伝わってくるようだ。命の重みを感じずにはいられない。


ぜひ、多くの方に、『八甲田山雪中行軍遭難資料館』にも足を伸ばしていただければ、と思います。

2015/04/23

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その6

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その5 の続き

生存者とその後の治療経過


生存者の記念写真

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捜索隊に救助され、青森衛戍(えいじゅ)病院に収容された者は17名でした。そのうち凍傷をまぬがれていたのは倉石大尉、伊藤中尉、長谷川商務総長の3人のみで山口鋠少佐、三浦武雄伍長、高橋房春伍長、小野寺佐平、佐々木正教、紺野市次郎の各二等卒は治療の効なく病院で死亡しました。


病床の様子

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ほかはいずれも重い凍傷に手足が侵されており、切断手術を受け、浅虫天地療養所での静養をはさんだ治療の後、退院し兵役免除となって帰郷しました。


雪中行軍遭難に対する世評


遭難事件が伝わると、全国の国民はもちろん、外国人までが熱烈な同情を表し、遭難者と遺族には多くのお見舞いの品、義援金が寄せられました。


義援金の寄贈者が多数あり、金額も巨額となったため陸軍は明治35年(1902)2月7日に義援金取扱委員を組織し取り扱いの事務を進め、2月17日には義援金の配分手続きを行う委員会を組織し、配分を行うこととしました。


義援金の総額は、5月28日までに20万円を越えました。(当時は、そば一杯が二銭でした)


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イタリア・ミラノ市で当時発行されていた絵入り新聞「ラ・トメニカ・デル・コリューレ」で紹介された雪中行軍事件。海外でも関心の高かったことが伺えます。


新聞報道


当時の新聞報道

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「二百余名の兵士風雪に倒る」

時事新報 : 明治35年(1902)2月1日付



時事新報は、「予測できない天災と諦めざるを得ない、出来事は、子細に前後の事情を調査し、原因を考究して後日の参考にすることが急務である。そして、特に、当局に希望することは、死者の遺族に対する前後処分である」と報道した。


「五連隊の責任」

萬朝報 : 明治35年(1902)2月8日付



萬朝報は、「一月二十四日は旧暦十二月十二日にあたり、青森では俗にいう『山の神の日』と唱え、古来から大荒れの天候が絶えたことがなく、市民も村民も警戒して外出しない習わしがあり、現に前日から天候が険悪になる兆しがありながら、一隊はこれを顧みず出発した」など、第五連隊の責任を問う報道をしました。


残された謎


行軍隊の責任者「山口少佐」の死


山口鋠少佐

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1月31日、駒込川大滝下流の谷底から救助された山口少佐は、2月1日青森衛戍病院に収容され、2月2日死亡しました。


少佐の死因は、明治36年(1903)5月発行の「陸軍軍医学会雑誌」136号に掲載された「明治35年凍傷患者治療景況」の中で「心臓麻痺」と発表されました。


山口少佐の死因には、遭難事故の責任をとってピストル自殺をした、という説があります。しかしこの説には凍傷に冒されて腫れた指でピストルの引金を引くことができたのかという疑問が残ること、病院内でピストルの発射音を聞いたという記録がないことから、陸軍が遭難事故の責任追求から逃れるため、指揮官である山口少佐を高濃度のクロロフォルムを使用し薬殺したという説が有力です。


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山口少佐が自殺にしようしたといわれるピストル
(山口少佐がこのピストルを実際に所有していたかどうかは不明である)



生存者のその後


後藤房之助伍長(第五連隊)


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明治35年(1902)1月27日午前11時、大滝平にて凍死寸前のところ、捜索隊に発見・救助され、翌1月28日に青森衛戍病院に入院しました。


凍傷に侵された両手指の全部・両足の膝下を切断する手術を受け、浅虫転地療養所での静養をはさんで9月10日に退院、兵役免除となり、宮城県栗原郡松姫村に帰郷しました。


帰郷後は、両足の切断箇所も治癒し、日常生活に事欠くことはありませんでした。その後、明治36 年(1903) (20歳)と結婚、二男四女をもうけ、特に酒・煙草を好み、酒を飲む際、手の甲だけで盃を朽ちに含み、一滴もこぼさないで飲み干すという特技を身につけたとのことです。また、小細工物造りにも精を出し、煙草入れ等を起用にこしらえたそうです。

大正2年(1913)4月18 日姫松村村会議員に当選し、村会に出席の際には馬で往復したそうです。大正10年(1921)4月17日まで議員を二期にわかり務めました。


大正13年(1924)7年31 日46歳で病没されました。


福島泰蔵大尉(第三十一連隊)


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明治35年(1902)1月20日から1月31日に行われた、弘前から十和田湖、八甲田山を越えた接収行軍の3月には、第三十一連隊二中隊長から、歩兵第四団副官に抜擢されました。そしてその年の10月、福島大尉37 歳の時、「キエ」21歳と結婚しました。


明治36年(1903)10月に山形補正第三十二連隊第十中隊長として山形に転任し、翌年10月に日露戦争に出征しました。明治38年(1905)1月28日、「黒講台の会戦」にて、降りしきる雪の中、指揮中に敵の砲弾を頭に受け壮烈な戦死を遂げました。40歳でした。


福島大尉は、同日付で陸軍少佐に昇進し、十六位に叙され、勲四等・功五級を受けました。



2015/04/22

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その5

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その4 の続き


捜索隊派遣まで


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連隊本部では帰還予定の24日、まれにみる猛吹雪と寒波で、一行はおそらく田代新湯にとどまっていると予想、念のため田茂木に出迎えの部隊を派遣しました。


翌25日になっても雪はおさまらず、40名の部隊を幸畑に置いて炊事の準備を整えて待ちますが一行は姿を現さないので、一部の兵士を田茂木野に派遣しましたが、風雪が勢いを増し、二次遭難の恐れも出てきました。


夜10時になっても行軍隊が帰還しないため津川連隊長は、田代新湯からの帰途大雪のために迷っているのではないか、あるいは田代新湯から動けずにいるのではないかと考え、救連隊を編成し田代へ向け派遣することを決定しました。


【 後藤伍長発見!】


後藤房之助伍長

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26 日午前5時40分、救援隊60名が幸畑へ向け出発しました。


幸畑で地元の村民27人を案内人に雇って田茂木野に到着して捜索にあたろうとしますが、あまりの風雪で案内人が前進中止を訴え、仕方がなく田茂木野に引き返しました。


27日午前6 時に再び田茂木野を出発した救援隊は、午前10時に大滝平を通過しようとしたとき、雪の中で立ったまま動かない兵士を発見しました。目を見開いたまま気を失い、仮死状態だった後藤房之助伍長でした。


救援隊の村上軍医が救急処置を施して蘇生した後藤伍長の口から、近くに神成大尉がいて、他の大部分の兵士は後方に散在していることを告げられました。


周辺で神成大尉と及川伍長の遺体を発見しますが、悪天候によってやっとのことで後藤伍長だけを運搬しました。


そして彼の話から部隊の悲惨な状況が判明して、大規模な捜索隊の編成派遣が決定しました。


捜索計画と規模の編成


【 捜索計画 】


津川連隊長

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1月27日午後7時、津川連隊長は事態の重大さを考えて、


●連隊は総力をあげて捜索救護にあたること

●田茂木野に捜索隊本部を置き、遭難地に捜索救護隊の屯所を設けること

●屯営から避難地の間に数多くのしょう所を設け後方支援を確実にすること

●電線を架設して通信を円滑にすること



という捜索救護の要項を示しました。


捜索規模の変遷


【 第一期(1月28日〜2月2 日) 】

歩兵第五連隊により約1.100人で捜索救援が始められました。


【 第二期(2月2日〜2月9日) 】

歩兵第三十一連隊、工兵第八大隊、輜重兵(しちょうへい)第八大隊、砲兵第八連隊からの応援があり、約2000人で捜索救護が継続されました。


【 第三期(2月9日〜2月18日) 】

当初から捜索に参加している歩兵第五連隊の将兵を休養させるため、歩兵第三十一連隊の将兵と交代させ、捜索救援隊は約1,100人で行われました。


【 第四期(2月18日〜3月7日)】

捜索が急峻な駒込川以外は、数回にわたり捜索をして成果があがっていること、捜索開始から通常の軍隊としての教育を全廃していることから、今後の教育上の観点から必要な工兵・輜重兵しちょうへい)を残してそれぞれの隊に復帰させ、歩兵第五連隊が独力で捜索することとなり、捜索救援隊は約500人に縮小しました。


【 第五期(3月7日〜4月23日)】

新兵教育を行う必要から捜索部隊の規模を縮小し2,3年兵による捜索部隊(約150人)を2隊変成して交互に捜索にあたりました。


【 第六期(4月23日〜5月17日 】

軍隊における重要な教育期間にあたるため、捜索隊長を生存者の胃石倉大尉とし、各中隊10人で捜索隊を編成し捜索を継続しました。


【 第七期(5月17日〜5月28日 】

樹木・雑草が生い茂る時期となり捜索が困難となるため、第五連隊の各大隊が交代で捜索にあたり、28 日に最後の遺体を発見し大規模な捜索を終了しました。


以後、14 人により残りの武器・装具の捜索が行われ、6月20日に全捜索を終了しました。


捜索態勢


遭難地の図

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連隊長は生死の間を彷徨う二百人の戦友を捜索救護するには十分な人手と設備、資金が必要で、これが不足すると捜索隊にも危害が及ぶことになるので、営内に庶務部、幸畑にその支部を置いて、必需品の調達にあたらせました。


さらに田茂木野に捜索隊本部と貨物を設けて捜索救護の指揮を統括、食事と医療の面を支援させました。


また田茂木野から避難地の間に第15〜第8、塩澤、高島、本多、高橋、鳴沢などの銷所設置して、雪道の開設や除雪にあたらせ、物資の運搬、情報伝達の中継所としました。


第八銷所全景

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各銷所の通信を円滑にするため、工兵第八大隊により臨時電信隊が編成され、青森電信局、屯営、田茂木野、各銷所間に電線を仮設し、各所に臨時の電信所を開設しました。


幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その6



2015/04/20

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その4

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その3 の続き


食糧・衛生・服装について(主に遭難した青森第五連隊について)


【 食糧について 】


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行軍隊の運搬隊が引いたソリ14台には食糧として精米一石二斗六升(約227㎏)、缶詰肉三十五貫(約131㎏)、漬物六貫(約23㎏)、清酒二斗(36ℓ)が積まれたという記録が残されています。


このほか各自が出発当日の昼食を飯ごうに、また小食として餅三食分6個の携帯が命じられていました。また調理道具や燃料も容易され、通常の一泊行軍ならば十分な装備の質と量といえるでしょう。


【 服装について 】


第五連隊捜索隊の服装

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神成大尉の計画書や出発前の「略装ニシテ防寒外套ヲ着用シ、藁靴ヲ穿チ・・・・」という通達から、一般の兵卒は小倉と呼ばれる綿の夏服、下士官(曹長・軍曹・伍長)と将校(少尉以上の士官)は羅紗という毛織物の軍服に厚手のマントを着用したことがわかります。


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また当時の防寒装備は現代のそれと比べようもなく貧弱で、手袋や耳覆いこそあったものの、足を唐辛子と一緒に油紙で包み込んでわら靴をはく程度でした。


【 衛生について 】


永井軍医から出発前に伝えられた、凍傷の予防に関する注意。


●行軍中の休息は長いと危険が増すために、一回3分を越えないこと。

●放尿後はズボンのボタンをきっちり締めること。

●空腹も危険なため残飯は捨てずに携行して、いつでも食べられるようにしておくこと。

●酒を慎むこと。

●万一露営する場合は眠らないこと。

●服や手袋と靴下を湿らせず、濡れたすぐに乾かすこと。


以上のような、細かなもので、凍傷をいかに恐れていたかがわかります。また、わら靴のはき方が指導され、さらに懐炉の携帯も指示されました。


【 藁靴 】


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藁靴は歩いている時は暖かいのですが、立ち止まると付着した雪が固まり、凍傷を招きやすいと言われています。


【 雪壕と炊事模型 】


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第三十一連隊は露営する際に、各小個隊で約2メートル、長さ5.5メートル、深さ約2.5メートルの壕を掘りました。しかし天井を覆うことができず、厳しい寒さが襲ってきました。地面まで掘ることができず、炊事をする歳にも雪が溶けて炊飯用具が傾いて、諦めました。


【 ゴム長靴 】


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救出された石倉大尉は、東京で買い求めたゴム長靴を履いており、凍傷を免れました。


【 油紙 唐辛子 】


凍傷を防ぐ手段として、足の指に唐辛子を砕いたものを付け、さらに油紙をまく、という方法もありました。


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捜索の際、使用したかんじき、シャベル、金かんじき、指揮刀(しきとう)。(「指揮刀」とは軍隊で、指揮官が訓練や儀式の指揮に用いる刀のこと)


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アイヌ人の活躍・捜索秘話


【 アイヌ人の活躍 】


アイヌによる捜索隊


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北海道のアイヌ人は勇敢で寒気積雪に耐え、雪山の知識も豊富という話を聞いた津川連隊長が、師団参謀を経て函館要塞司令官に派遣を依頼しました。これをうけて部落村のアイヌ人、弁開凧次郎ほか6名が捜索に参加しました。


彼らは雪深い山や、最も危険な駒込川の岸を奔走して、2月11 日から4日19日までの67日間に11の遺体とおびただしい数の行軍隊が行きした武器装具を発見するなど大きな役割を担いました。4月になり、彼らの労働の季節になったため、弘前市の第八師団司令部の見学や市内見物の後、帰郷しました。


捜索秘話


【 バーナード犬の活躍 】


遺体の搬送の様子


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青森市合浦公園内の柿崎巳十郎が飼っていたバーナード犬が捜索に協力、その鋭い嗅覚で深い雪の下からの遺体発見に活躍しました。


また、東京日本橋の小林善兵衛が、セントバーナード犬を提供し、飼育係が犬と一緒に現地入りして協力しました。


幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その5




2015/04/17

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その3

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その2 の続き


(分かり易いよう、遭難した青森第五連隊(神文吉大尉)は赤無事帰還した弘前第三十一連隊(福島泰蔵大尉)は青にしました)


第五連隊の行軍計画


当時の世界情勢からロシアを仮想敵国と想定していた陸軍は厳冬期に、八戸平野に侵入した敵に対するために、青森から八甲田山を越えて三本木(現・十和田市周辺)にいたるルートを確保しようと考え、厳寒期の雪中露営と雪中戦闘の研究という主要任務のもとに、まずは青森へ田代間約20㎞の一泊雪中行軍を計画しました。



雪中露営

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行軍隊指揮官 第二大隊長山口少佐

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(左)主任中隊長 神文吉大尉 
(右)銅像のモデルといわれる後藤房之助伍長


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行軍隊の指揮官は、第二大隊長の山口少佐が努め、主任中隊長には神文吉大尉が任命されました。行軍隊は伊藤中尉、鈴木少佐、大橋中尉、水野中尉がそれぞれ率いる4個小隊と中野中尉を小隊長とする特別小隊で編成され、さらに編成外に大体本部として山口少佐と奥津大尉、倉石大尉、永井軍医らが加わり、総勢210名の部隊となりました。


実質的な責任者である神成大尉は、雪中行軍5日前の明治35年(1902)1月18日に、20名の一個中隊で田代街道を小峠まで予行行軍を行い、その結果を踏まえて連隊屯営から田代新湯まで一泊の行軍を予定しました。雪中であることから、一日では到達できないことも考慮して食料など露営の準備もしました。


出発前日、山口少佐から、凍傷のおそれを避けるために、休憩は3分以内にすること。休憩中は手足を摩擦することなどが指示され、また永井軍医からは、略装の一般防寒着に、手袋、わら靴直用で、飯ごう、水筒、昼飯、丸餅2個を持っていくなどの注意がありました。


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死亡将兵の出身県


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救助された治療中に死亡した6名を含む、死亡兵将199名を出身都道府県別に集計したもの。

【岩手県】……139名

【宮城県】……46名

【青森県】……5名

他に、東京都、神奈川県、熊本県、北海道、秋田県、山形県、佐賀県、長野県が1名となっています



これは当時、五連隊には岩手県と宮城県の出身者が、青森県出身者は弘前歩兵第31連隊に入隊したため、青森の気候に不慣れだった人達が多かったことも、原因の一つとされています。


※    ※    ※



二隊のルート


青森第五連隊行軍経路(神文吉大尉 遭難) 

弘前第三十一連隊行軍経路(福島泰蔵大尉 無事帰還)

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第五連隊は八甲田山の北側を南下して田代新湯に向かう一泊行軍、第三十一連隊は弘前から十和田湖の南湖畔をかすめながら三本木(現・十和田市)に出て、さらに西進北上して八甲田山(田代方面)を声、青森に出た後に弘前へ戻るという、十一泊の長距離行軍でした。


二隊の編成の違い


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(第三十一連隊は軍隊とはいえないような小規模の部隊編成であることがわかる。映画「八甲田山」では、福島泰蔵大尉役の高倉健さんが「死ぬかもしれないから、自ら志願した若い兵士を集めた」と上官に報告する)


第五連隊が出発した1月23日の天気図

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※    ※    ※



第五連隊の行軍経過


1月23日

午前6 時55分、第五連隊屯営を出発。田茂木野あたりから運搬隊が遅れはじめ、午前11時30分ころ小峠に着いたころから天候が急変します。

午前4時、馬立場に達して、はるか遠方の運搬隊への支度と、田代新湯に先遣隊を派遣します。風雪と寒気はますます厳しくなり、先導隊が迷って、いつのまにか本体の後方につくなどと混乱をきわめます。立ち往生した一行は露営を決め、午後9時頃にようやく到着した運搬隊が炊事をはじめますが、難航して午前1時過ぎにようやく半煮の飯が配られました。


1月25日

午前3時、比較的元気な残り3分の1の将兵で出発しますが、猛吹雪の中をやはり迷い続け、前夜の露営地に戻ってきてしまいました。午前7時ごろ、斥候隊を編成した田茂木野方面に派遣して、その報告で帰路に着きます。

午前3 時、馬立場に達しますが、すでに多くの将兵は散り散りになっていました。午前5時、中野森の凹地で3 泊目の露営をはじめます。


1月26日

午前1 時、残った30名ほどで出発します。

午前11 時、神成大尉と石倉大尉の2隊に分かれて、それぞれが道を求めます。石倉大尉の一行は駒込側で行き止まり、そこでとどまることになります。神成大尉の一行は大滝平らで力尽きて倒れますが、後藤伍長が立ったまま仮死状態に陥って、捜索隊に発見されます。


※    ※    ※



第三十一連隊の行軍経過


福島泰蔵大尉

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弘前第三十一連隊

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1月20日

午前5時20分、37名の福島隊が弘前屯営を出発します。唐竹を経て小国まで、順調に進みました。


1月21日

曇り空に小雪がちらつく中、深い雪に阻まれながら切明までの行程を突破しました。


1月22日

切明で5名の案内人を雇い、終日、風雪の中を温川を経由して十和田湖畔までの行軍です。


1月23日

十和田湖畔に沿って宇樽部まで進みました。途中で進軍が困難な場合は、真冬でも凍結しない十和田湖畔を船で行くことも考えましたが、そういうこともなく、比較的順調に行軍しました。


1月24日

猛烈な吹雪と氷点下16℃という寒気の中を休息もとらずに行軍します。水筒の水も凍ってしまい、雪を食べながら戸来村に到着して村民の歓迎を受けました。


1月25日

前日の天候に比べれば遙かに楽な日、三本木までの行軍でした。途中、語調一人が脚気とわかって、下田から汽車で帰還させました。


1月26日

翌日から八甲田越えを控えて比較的短距離の、増沢までの行軍でした。増沢では7名の案内人を雇います。


1月27日

猛吹雪の中を田代に向かいます。積雪で道を見失いながらも田代に到着、大きな枯れ木の下で雪壕を4m堀り「この過酷な自然に負けるな、天に勝つべし」と福島大尉は部下を励まし露営しました。


1月28日

青森を目指して豪雪寒気の中をくろうしながら進みますが、賽の河原を過ぎた頃夜になり午前2時過ぎに、ようやく田茂木野に尽きました。


1月29日

田茂木野で暖かい食事をとり、そのまま夜を徹して青森まですすみました。


1月30日

出発以来始めて晴天の下、浪岡まで進軍します。


1月31日

全員無事に帰営しました。


第三十一連隊の行軍計画


第五連隊が出発する3 日前の明治35年(1902)1月20日、弘前の第一位連隊37名の将兵が福島泰蔵大尉の指揮のもと、弘前屯営から十和田湖を経由して三本木に抜け、さらに田代から青森へ達して、弘前に帰るという計画で出発しました。


福島隊は途中の村落で村民の手厚い歓迎を受けながら、さらに地元の人々の生活に根付いた雪への知識と経験から多くを学び、道案内も雇いました。12日後の1月31日、一人の犠牲者も出さず、無事に全行程を突破して弘前の屯営に戻りました。


青森隊とはまったく同時期に、はるかに小規模の部隊編成で、長距離行軍を完遂した偉業には、青森の山野と雪質への経験が豊富な地元青森出身者が大半を占めていたこと、経験のある地元の村民を案内人として雇ったこと、さらに雪中行軍に対する研究・準備が十分になされていたことなど様々な要因が考えられます。


行軍日程

1月20日 弘前——唐竹——小国
1月21日 小国————————切明
1月22日 切明——温川——十和田
1月23日 十和田——休屋——宇樺部
1月24日 宇樺部——戸来
1月25日 戸来—————三本木
1月26日 三本木——増沢
1月27日 増沢—————田代露営
1月28日 田代露営————田茂木野
1月29日 田茂木野————青森
1月30日 青森——————浪岡
1月31日 浪岡———弘前

全行程224㎞余り・11泊12日



※    ※    ※



幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その4


2015/04/16

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その2

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その1 の続き


青森第五連隊行軍経路(神文吉大尉 遭難) 

弘前第三十一連隊行軍経路(福島泰蔵大尉 無事帰還)

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時代背景と世界情勢


明治28年(1895年)3月、日清戦争が実質的に終結したことに伴い、翌4月に締結された日清講和条約によって、日本は朝鮮国の独立と、遼東半島の割譲、さらに蘇州と杭州の開港を得ました。


これに対してロシア、ドイツ、フランスの3国は「アジアの平和を脅かすもの」として日本に遼東半島の返還を要求しました。さらに清国の日本への賠償金の支払いを一部肩代わりしたロシアが東清鉄道の敷設権を獲得したうえに、旅順と大連の港を租借し、さらに朝鮮に進出を企てるなど、日本国内は日露戦争勃発直前の緊迫感に包まれていました。


二つの隊の誕生


【 第五連隊の成立 】


明治8年(1875)12月16日、第五連隊として編成されるだいたいが、青森筒井村に設置され、以来、第五連隊は寒気と雪が作戦に及ぼす影響の研究と寒地での軍事訓練を重ねていました。


本州の北端に位置する青森周辺は、およそ半年は雪に埋もれ、1~2月は吹雪で交通が途絶することもしばしばで、気温が時には氷点下10℃を下回るなど、耐寒訓練としては、絶好の地で、実際に小湊、小川原湖、十和田湖周辺などで雪中行軍、氷上歩行などの訓練が毎年のように実地されていました。


第五連隊の行軍が青森屯営から、八甲田山に向けて出発した3日前に、弘前から第何十連隊の行軍が出発、十和田湖南岸を経て現在の十和田湖を向け、さらに八甲田山に向かっています。


入山後は、青森隊が目指したものと同じ行路を数日後、逆方向から突破し、一人の犠牲者も出さずに青森に下山して、さらに弘前まで無事に帰還しています。


ロシア戦に備えた冬季演習



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第五連隊では明治8年(1875)の設立以来、積雪寒冷地での軍事行動についての研究が進められ、数々の雪中耐寒訓練が実地されていました。


① 明治23年(1890)には、奥野光照大尉が酸ヶ湯を経て十和田湖畔までの接収行軍を敢行しました。

② 明治32年(1900)には、加藤房吉大尉が小川湖の氷上歩行の試験を行いました。

③ 明治33年(1990)には第一大隊が小湊で雪中行軍を行いました。

④ 明治34年(1901)には第三隊が浪岡の五本松付近で雪中行軍を行いました。

⑤ 神成大尉も、出発直前の明治35年(1902)1月18日に20名の一個中隊で田代街道を小峠まで予行行軍を実地しています。



弘前の大三十一連隊においても明治33 年(1900)2月に、雪中露営の研究演習が実地され、明治34年(1901)2月には、二つの部隊により、弘前から藤崎を経由して鯵ヶ沢至る雪中行軍が実地されました。


真冬の八甲田超えが意味するものは、当時予想された戦地満州であったものの、仮想敵国のロシアが津軽海峡と陸奥海峡を封鎖した場合のことを想定していたからはじまります。


ロシア海軍が艦砲射撃で沿岸の軍事施設や鉄道、道路などを破壊して築城させる場合、軍隊が常時駐屯している青森や弘前よりも、比較的手薄な八戸付近であろう、と考えされており、そうなった場合、青森と弘前からの迎撃部隊は現在の国道4 号を進行することになりますが、この道路が砲撃などで遮断されれば、やむなく八甲田超えをしなければならなくなります。


夏季なら容易なルートですが、冬季だと現代でも通行止めになるほどの難コースで、第八師団としてもこの難問に取り組む必要があったのです。


幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その3






2015/04/15

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その1

青森県八甲田山へ その1 雪の八甲田  に書いたように、青森に行ったのは『八甲田山雪中行軍遭難資料館』を訪れるためでもあった。


FOUR-SEASONS PARK 八甲田山雪中行軍遭難資料館

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最近になって夫にきいた。夫が留学でお世話になったのは、カナダ軍と関係の深い研究所だった。


留学先で、「雪中行軍の遭難事故についての資料が欲しい」というような依頼があったそうだ。しかし、当時の資料をあたってみたけれど、昔の文献は仮名遣いなどが難しくよくわからなかった、と教えてくれた。


夫は、国語や歴史などがあまり得意でない・・・新田次郎さんの小説を読んでも、軍に関する専門用語は現代の私達になじみがなく難しい。確かに無理だったかもしれない。でも、せっかく雪中行軍の悲劇を海外の研究者に知ってもらうチャンスだったのに・・・。


私が残念に思っていたのは、今の日本で「雪中行軍の悲劇」が国民に正しく理解されていないことだ。それどころか八甲田山というと、「心霊スポット」として有名だ。


私も八甲田山を訪れ、銅像を偶然目にしなければ、興味を持たなかった。多くの兵士が亡くなった恐ろしい場所だから、避けて通らないといけない、というイメージがあったからだ。


今回、青森市の『八甲田山雪中行軍遭難資料館』を訪れてとても良い資料館だと感じた。誰が、何をどうしたから、悲劇が起こったのかが、よくわかるからだ。事故が起きた当時、どのような報道がなされたか、についても展示されていた。


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ほとんど興味がなかった息子でも、10分間の記録映像を、真剣にみていた。とてもよくまとめられているからだ。


私が「良かったな」と思ったのは『八甲田山雪中行軍遭難資料館』が地元では桜の名所になっていることだった。


資料館の後ろは兵隊さんの墓地になっていて、ここに皆眠っている。春になると地元の方々がお花見に訪れるそうだ。私がもしもこの墓地に埋葬されていたら、「心霊スポット」では悲しい。楽しく過ごす人達をみていたいと思う。


先日、ダイアモンド・オンラインで「国連防災会議、大川小保存を卒業生が世界に訴え」を読んだ。大川小学校の卒業生が、後の世に悲劇を伝え欲しいと訴えていた。


※    ※    ※



国連防災会議、大川小保存を卒業生が世界に訴え 大津波の惨事「大川小学校」〜揺らぐ真実〜 ダイアモンド・オンライン 【第46回】 2015年3月15日


当時大川小学校5年生の妹が犠牲になった高校2年生の朋佳さんは、こう思いを明かした。


「私はこの震災で大川小に通っていた妹を失い、辛い日々がずっと続きました。私と同じ思いをした人はたくさんいます。家族を失って、ひとりになった人だっています。でもいつか、大川小での出来事を伝える人はいなくなります。私たちが、同じことを繰り返さないために何をすればいいのか。それは、未来のためにあの校舎を残し、地震と津波の恐ろしさや地震が起きたらどうすればいいかなど、いろいろなことを見て感じる場所にすることだと思います。あの校舎は実際に見て、感じることは、映像や写真を見ることよりも明らかに多いはずです。何十年先の未来のために、どうか校舎を残して、昔の綺麗な桜に囲まれた大川小学校に少しでも戻っていけたらと思います」


 当時小学5年生だった只野哲也さんは、「大川小の校舎をもっとたくさんの人に見てもらい、津波や地震の恐ろしさを後世の人々に伝えていくきっかけになってほしい」と世界に向かって訴える。



※    ※    ※



『八甲田山雪中行軍遭難資料館』が地元では大切にされ悲劇が語り継がれている。展示資料を見ていたら、大川小学校の悲劇も、このように語り継がれていったらいいだろうな、と思った。


ボランティアの方に丁寧な説明をしていただいた。「資料など、写真にとってください」と言っていただいき、資料館を後にする時には、「ありがとうございました」と言っていただいた。


その姿に、亡くなった兵隊さん達を大切に思っているから、事故を風化させないように努力を続けていることが伝わってきた。


せっかくだから、ブログに記録しておこうと思う。多くの方々にこの資料館を訪れて欲しいと思います。


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卒業生ら大川小校舎保存主張へ…宮城 2015年03月06日 09時00分 読売新聞


津波で児童と教職員84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の卒業生が14日、仙台市で開かれる国連防災世界会議のパブリック・フォーラムで、校舎を遺構として保存するよう訴える。卒業生らが4日、石巻市内で会合を開き、主張する内容について話し合った。


 大川小校舎を巡っては、地元住民らでつくる協議会が、〈1〉校舎全部を保存〈2〉一部を保存〈3〉解体・撤去――の3案を示しているが、震災遺構を巡る県や市の有識者委員会では、遺族感情に配慮して議論の対象外とされた。一方で、卒業した中高生は校舎の保存を求める署名活動を行ってきた。


 卒業生が参加するのは、子供たちが復興に関する意見を世界に向けて発表したり、防災教育について提言したりするために行われる二つのフォーラム。高校3年の佐藤そのみさん(18)は「震災の記憶を風化させないためにも、保存することの必要性を訴えたい」と話している。



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幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その2




2015/04/13

『うつを治したければ医者を疑え! 』を読んで その2 処方した薬には最後まで責任を持つ

『うつを治したければ医者を疑え! 』を読んで を書いた日の深夜、午前1時すぎに、メールをいただいた。またまた辛辣な批判コメントかなぁ〜と思ってメールを読んだら、違った。精神科医の先生からの、長いメールだった。


うつを治したければ医者を疑え!うつを治したければ医者を疑え!
(2015/04/06)
伊藤 隼也、特別取材班 他

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先日、引用させていただいた井原裕医師の言葉には、続きがある。


伊藤

今後、患者側に必要なのは医師をコンサルタントして、自分のおかれた状況を整理してもらことではないでしょうか。医者「に」何ができるかじゃなくて、医師「と」何ができるか考えるべきです。


井原

素晴らしい提案です。精神科医は一般市民がまさかこんなにも批判の声をあげるとは思っていませんでした。昔は統合失調症の患者さんばかり。幻覚や妄想を薬で押さえ込めば、あとはいたって従順な人ばかりでした。


ところが、伊藤さんの精神医療問題を追及する記事や、インターネットなどを介して、「モノを言う患者」が増えてきた。精神科医はびっくりしたわけです。「薬さえ飲ませておけば、患者は大人しく言いなりなる」と思っていたわけですから、迂闊だったのですね。一般市民の良識ある発言こそが現状を変えます。


これからも、声をあげて欲しいですね。


ただ在野には目立たないけれど、すぐれた実践を行っている精神科医もいます。市井に隠れた賢人がいるのです。こうした存在も忘れないで欲しいですね



私にメールをくださった精神科医は井原先生のおっしゃる隠れた賢人のお一人だと思う。井原先生のご発言を読んで、私もちょうど、その先生を思い出していたところだった。


先生には以前言われたことがある。


「私の知っている精神科医には、誠実な医師が多い。小児科医にも産科医にも不誠実な医師もいる。誠実で一生懸命診療にあたっている精神科医がいることを知って欲しい」。


私はそのメールをいただいた時に反省した。私の書いたブログを読んで、真剣に考えている精神科医がいることを知ったからだ。


民間企業ではクレームを入れるお客様の後ろには、同じようなモノを言わぬ、数百人のお客様がいるといわれている。だから、目の前の一人のお客様のクレームに真摯に対応するのだ。看過すれば、後々大きな不祥事につながるかもしれないからだ。


私が病院宛に、『要望書』や『手紙』を書いたのは、私以外にも理不尽な思いをしている人がいると思ったからだ。


同様に、メールを書いてくださった先生の後ろには、同じように考えておられる精神科医がいるのだろう。


その日を境に、私の中にあった、精神医療に対する怒りや不信が消えていった。


そして、おとといいただいたメールを読んだ時に、完全に無くなってしまった。そこには、なぜ私が理不尽な目にあったのか、その理由が書かれていたからだ。


要するに、私の心を回復させるために必要だったのは、なぜ「障害者」にされてしまったのか、その理由を知ることだったのだろう。


今まで裁判も考えたことがあったけれど、裁判とは「勝てそうな」争点で争うものだ。裁判では、きっとたどり着けないと思った。


ある時、話し合いで解決を目指す『医療ADR』という方法があることを教えてもらった。けれど対話型『医療ADR』も、私が求めていることとは、ちょっと違う。


なぜなら私が精神医療に送られてしまった理由は、様々な要因が重なりあって生み出された結果だからだ。『うつを治したければ医者を疑え! 』に書いてあるような、薬の問題、プロモーションの問題、医療政策の問題、医師の側の問題、患者と家族の問題など、多岐にわたるであろうことは、はじめから想像していた。


その頃、ある精神科医が起こした暴力事件が報道されたことも大きい。我が国のPTSD治療の権威である著名な精神科医が、患者を難聴になるほど殴ったのだ。しかも、その精神科医は「殴ることが治療の一環」だと堂々と主張していたのだ。


このようなことが診察室で起きているにもかかわらず、その後、学会等で再発防止対策が話しあわれたなどの話を聞いたことがない。きっと、その権威を簡単に辞めさせられないような事情があるのかもしれない。


今あるどのような制度を利用しても、私が知りたいことはわからないと思ったし、改善には結びつかないと感じていた。


しかし障害者でない人を、一方的に『障害者』にしてしまうなど、あってはならないはず。中・長期的に時間をかけ解決すべきこともあるが、緊急を要することもある。このような答申書が複数出ている以上、そうのんびりもしていられないと思った。


答申書 特定個人の診療記録等の不開示決定に関する件 


だから私は報道、ジャーナリズムに期待したのだ。


先生からいただいたメールには、このようなことが書かれていた。(文体などを少し変えてあります)


30年前は、精神病の患者さんにとって病院が家のかわりでした。


幻覚や妄想は薬物によって消えても、社会性はなかなか回復しないため、病気は治らないと考えられていて、社会で生活することは、患者さんには過酷なことだと思われていました。そのため、病院を居心地よくして、生活の場にしてあげようという感じでした。


(そうはいっても、実際には、快適な環境の病院は少なく、劣悪な環境のほうが多かったのですが)


でも、そのうちに、長期入院は良くない、社会復帰させなきゃいけないということで、退院促進がどんどん進められるようになってきました。私は退院促進は、良いことだと思っていたのですが・・・


でも、薬を服用している状態で社会に復帰しても、仕事はないし、人間関係も上手く構築できない。再び入院する人も多いのです。


残念ながら、デイケアや訪問看護や作業所など、医療や福祉や行政の提供するいろいろなサービスを受けながら、自分の足で生活できる人は、ほとんどいないのです。


そんな風に生活の質が低下していくのは、病気のためだとずっと思っていました。



この後、「早期介入」の弊害にも触れている。必ずしも患者のためになっていない現状がつづられており、今後は、井原先生と同じように、薬をなるべく使わない診療を目指したいそうだ。


もしかしたら・・・


私のように自力で断薬し元気に暮らし、しかもブログまで書いて改善を求める元患者がいることが、ある意味ショックだったのかもしれない。


夫は、私のように元気になれる人の方が少ないだろう。断薬して回復する、というエビデンスを出すのは難しいだろう、と言っていた。


だから私は今回、断薬をどのように、成功させたのか書こうと思う。


これは元主治医だったA医師 (精神科医)の処方だ。子どもが生まれた第三次救急にある外来だった。はじめこそ単剤だったけれど、あっという間に増えていく。


【 A医師 (精神科医)の処方 】

H17.5.27

ユーロジン2mg錠 1日1錠14日分

H17.6.20

1.ユーロジン2mg錠 1日1錠14日分
2.ドグマチール錠50mg 1日3錠20日分
3.レンドルミン錠 1回1錠5回分

H17.7.8

1.ユーロジン2mg錠 1日2錠14日分
2.ドグマチール錠50mg 1日3錠28日分
3.レンドルミン錠 1回1錠10回分

H17.8.5

1.ドグマチール錠50mg 1日3錠21日分
2.ユーロジン2mg錠 1日1錠
3.セロクエル25mg錠 1日2錠14日分
4.ユーロジン2mg錠 1日1錠
5.セロクエル25mg錠 1日2錠7日分
6.レンドルミン錠 1回1錠



次は「障害者」にされたショックで「眠れなくなった」と訴えた時の記録。「ベゲタミンA錠」が追加された。井原先生が対談の中でおっしゃっている典型的なダメな処方だと思う。要望書にも記載したけれど、自らの言葉で患者に心に負担をかけたのなら、自らの言葉で回復させるのがプロだと思うからだ。


H19.8.9

1.セロクエル100mg錠 1日1錠60日分
2.ベンザリン錠5mg 1日2錠30日分
3.アモバン錠7.5 1回1錠14回分
4.ガスター錠10mg 1日2錠30日分
5.ベゲタミン錠-A 1回1錠10回分



この後、私は転院し断薬を試みたのだが、なかなか上手くいかない。一番の原因は、精神科医は断薬の方法を知らないということだった。向精神薬の長期服用の影響で眠れなくなる、ということをご存じないのか認めなくないのだろうか。中には『SSRI』をすすめる精神科医までいた。


いくつかの病院を転々とした後、あるクリニックで診てもらえることになった。そのクリニックは、どんな患者さんでも受け入れることをモットーにしていた。私の主治医となったB医師は内科医だった。良い先生に巡り会えたとはじめは喜んでいた。しかし・・・


これははじめの頃の処方。試行錯誤してくれたものの、この後、やっぱり向精神薬が同じように増えていく。


【 B医師(内科医)の処方 】

H 22.3.15

①ツムラ抑肝散エキス顆粒(医療用)7.5g
毎食間 ×28日分
②ツムラ 小青竜湯エキス顆粒(医療用) 9g
毎食間 ×28日分
③エルピナン錠20 20mg 1錠
状の強い時に併用を 夕食後 ×14日分
④ミタヤク点眼薬2% 100mg5ml 1瓶
1日5〜6回 両眼1〜2点眼 ×1回分
⑤プロチゾラムOD錠0.25mg「タイヨー」 1錠
レンドルミンGE 寝る前 ×28日分



一番多く薬が出されていた時のもの。


H23.7.19

①ビオフェルミン配合散3g
毎食後 5日分
②ツムラ桔梗湯エキス顆粒(医療用) 7.5g
毎食間 5日分
③キプレス錠10mg 1錠
夕食後 5日分
④ツムラ葛根湯エキス顆粒(医療用) 7.5g
毎食後 7日分
⑤プロチゾラムOD錠0.25mg「タイヨー」 1錠
寝る前 ×14日分
⑥ユーパン錠0.5mg 2錠
夕食後 ×14日分
⑦ツムラ温清飲エキス顆粒(医療用) 5g
起床時 寝る前 ×14日分
⑧ツムラ補中益気湯 エキス顆粒(医療用) 5g
起床時 寝る前 ×14日分


この後、あることで行き違いになり、私はクリニックを放り出された。ちょうど師走で転院先など簡単に見つからない時期だった。元主治医だったそのB医師は、私が困るであろうことをよく知っていてそうしたのだ。


地元には以前診てもらっていた胃腸クリニックがあった。子どもが生まれた第三次救急で「障害者」にされたショックで、胃腸の調子がおかしくなり、一年近く通院していたのだ。


向精神薬はいきなりやめるわけにはいかない。夫がその先生は誠実だから、きっと相談に乗ってくれるはず、と私を励ました。私は、予約をとって胃腸クリニックのC医師に頭を下げてお願いした。


はじめは断られた。


「自分で処方していない向精神薬には、責任が持てないから」というのが理由だった。C医師も、向精神薬を処方するけれど、必ず最後の断薬まで責任を持つそうだ。ある薬学部で講師をした経験もあるから、薬の怖さをよくご存じなのだ。


C医師のおっしゃることはもっともだと思った。「責任を持てない」と断ることが、逆に誠実だと感じた。


大学病院に勤務する友人も私に言っていたことがあった。「僕は、向精神薬を処方しません」。それは患者のためを思ってのことなのだろう。


友人は治療法のない難病や末期のがんの患者さんに毎日見向きあっている。そのため、目の前の患者さんが、その薬を処方されたことで、将来、受け入れなくてはならなくなる不利益にも、きちんと目を向けている。一時の症状の軽減よりも、大切なものもあるからだ。家族が負うであろう経済的な負担など、最後の最後まで考えているのだ。


向精神薬という薬は、本当はそういう類いの薬だと思う。


「精神科医だけが悪いんですか?」とよく精神科医がおっしゃっている。簡単に処方してしまう内科があることだって、問題があるというのだ。確かに私はその通りの経験をした。


「責任を持てないから嫌だ」といっていたC先生は、私が一生懸命事情を話したら、私をおいてくれた。神様のように思えた。



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私が断薬までの一応の計画をたて、「まずは一錠を半分にします。お薬カッターを使って、半分に切って服用します」と言ったら、「自分でそんなことをしなくていいよう、僕が処方箋に書いてあげる」と協力してくれるようになった。


半年ほどで断薬に成功した。


私は、師走の街で途方にくれた時に、『主治医』とか『かかりつけ医』という言葉が嫌いになった。元気になったら、健康になりさえすれば、病院に行かなくてもいい、私は自由になれる。その一心で断薬を成功させた。全く関係のない胃腸クリニックのC先生に、これ以上、迷惑をかけることも嫌でたまらなかった。


一番悪いのは、はじめに処方したA医師(精神科医)だ。


しかし、向精神薬の怖さをよく知らず簡単に処方する内科医のB医師にだって、責任があるだろう。B医師は「ワイパックス(ユーパン)は安全だから、一生服用しても大丈夫」といつも私に言っていた。


でも、私を一番苦しめたのは、そのワイパックス(ユーパン)だった。何度やっても、なかなか断薬できなかった。


処方記録にあるように、その頃なぜか頻繁に風邪をひいていたし、原因不明の腹痛にも悩まされ続けていた。不思議なことに、向精神薬を断薬した途端、嘘のようにそれらの症状が消えた。ベンゾジアゼピンの長期服用にも問題があるかもしれないけれど、病気じゃないのに、受診を続けないといけないことが私にはストレスだったのだ。


だから私は、精神科医がいうように、なんでもかんでも、精神科医と精神医療の責任にしてはいけないと思う。


処方するだけなら、医師でなくてもできる。


最近、よく思う。あのクリニックのB医師は私以外の患者さんにも、向精神薬を処方していた。患者さん達はその後どうなったのだろうかーーーー


伊藤隼也さんへのバッシングは多い。


けれど、『精神医療』というレールに一度乗せられたら、容易にそこから抜けられなくなる現実がある。そういうことにも目を向けて欲しいし、血のにじむような苦労をし、断薬をしなければならなくなった患者がいる、ということを考えて欲しい。


その人達を生み出したものは、一体何で、これからどうすればいいのだろうか。


減薬や断薬を願う患者さん達へ、手をさしのべることもまた、医療だと思う。「自分の処方した薬には、最後まで責任を持つ」ということを、多くの医師に考えてもらえれば、と思う。