2015/11/30

利益相反を立証するには インチキの見破り方! その2

利益相反を立証するには インチキの見破り方! その1 の続き


三葉銀行 柴野
「額面総額は1023億1280万円。買い取り価格93億1047万41円」


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三葉銀行社員
「93億ってムチャクチャじゃない。額面総額のね・・・」


ホライズン 鷲頭
「9,1%ですね」


三葉銀行 柴野
「どういうことですか、説明して下さい!」


ホライズン 鷲頭
「わかりました。例えばそのナンバーワン。赤羽の『ホテル・ブルーシャドー』」


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「2億円の債権で査定額が1 円。部屋の壁は薄く隣の音は筒抜け。ベッドのクッションも悪く、カラオケの曲数の少なく、3年前のまま。部屋のインテリアもデザインも流行には無関心」


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「2億円で購入しても修繕費だけで莫大で返済原資がない。従って査定額1 円」


三葉銀行社員
「じゃあ、これは、№3の赤坂の・・・50 億はくだらないでしょう」


—————案件№3「ネオ赤坂ビル」


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青の二人が、店を調べにきたホライズンの社員


ホライズン 鷲頭
「各階のクラブ・キャバクラは所謂暴力団のフロント企業が経営。最上階の別室では違法カジノが営業。従って査定額1円。以下、№24から№42はいずれも自分で返済せずに、三葉銀行のノンバンクが返済金を融資しています。所謂『飛ばし』です」


三葉銀行社員
「『飛ばし』・・・」

(『飛ばし』とは、バブル崩壊後に頻繁に行われていた粉飾決算のこと。不良債権を関連会社やペーパーカンパニーに付け替えること)


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三葉銀行 飯島常務取締役
「もうええやろう」


◇  ◇  ◇

2015/11/30

利益相反を立証するには インチキの見破り方! その1

●インチキを証明するには足でかせぐしかない


インチキが何のことなのか、詳しく書かなかったせいか、すごいアクセス数でびっくり!


私は企画書のようなものを、何度かかいたけれど、そのたびにダメ出しされ何度もかきなおしてきた。


「何が言いたいかよくわからない」「詰めが甘い」など。。



その中でも最大の難関は、インチキをインチキだと立証することだった。これまで調査などしたことがない一市民が、証拠を探すのは、とても大変だった!


●手口をそのまま公開するのは、ジャーナリズムじゃない


私はその大変さを、どうやってブログに書いたらいいのかずっと考えてきた。このブログの目的の1つは、記録を残しておくことでもあるからだ。


でも先日「手のうちをあかすのはジャーナリズムではありません!!」と怒られたばかりだ。あぁ、それでも、少しでいいから記録を残しておきたいなぁ。


そんな時に頭に浮かんだのがあるドラマの、ある場面だった。ブログに何回か引用させていただいた、2007年(平成19年)にNHKで放送されたハゲタカというドラマのバルクセールの場面だ。


三葉銀行という巨額の不良債権を抱えた日本の大手銀行が、外資系投資ファンドの「ホライズン・インベストメント・ワークス」に買いたたかれる場面だ。


(三葉銀行のエリート社員に柴田恭兵さん、銀行の裏事情に精通する常務取締役に中尾彬さん、ホライズン・インベストメントワークス・ジャパンの代表が大森南朋さん。こちらのハゲタカのバルクセールだけの動画があります↓)


「ハゲタカ」名場面集(1)「バルクセール」dailymotion動画

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●中尾さんみたいな人に、「もういいだろう」と言わせるには、どうしたらいい?


不良債権のバルクセールを簡単に説明すると、銀行などの金融機関が、投資家などの第三者に、保有する不良債権をまとめて売り払うことをいうそうだ。不良債権のバーゲンセールのような感じだろうか。


もちろん不良債権の中には、いわく付きの不動産物件などもある。それがお得なお買い物になるかは、投資家の腕にもかかっているだろう。


ドラマの中で三葉銀行の幹部ははじめ、このように考え余裕の表情をみせている。


ハゲタカといったって、どうせ外国人だ。日本の事情には疎いだろうし、リストにある不動産に、価値がないことなど見抜けないだろうーーーーー


要するに、不動産を一軒一軒調査するなどしないだろう、と侮っているのだ。


ところが、ハゲタカといわれるだけあって、徹底的に調査し、しかもネゴシエーションも完璧で三葉銀行の幹部が一瞬にして青ざめる。


インチキを証明するというのは、いってみれば、ハゲタカの人達がやったような調査を、私自身がすることだった。しかも最後は、中尾さんが演じる、強面のおじ様のような人達に「もうええやろう」と言わせなくてはならない。動かぬ証拠をつきつけて、その上、ネゴシエーションもしなくれはならない。かなりハードルが高い。。


もっとも、銀行などの金融機関に勤める方だったらこのような調査はあたり前だろうし、私にとってもある意味「門前の小僧」の部分がある。振り返ると、いろいろと感慨深いな。面白いから、文字におこしておこう〜。だって本当に私も、同じように調べに行ったんだよ。


◇  ◇  ◇


ホライズン 鷲頭 
「バルクセールの精査結果がでました。ご覧下さい」


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一斉に分厚い資料をめくる三葉銀行幹部。買い付け金額欄に「1」が並ぶ


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三葉銀行社員
「何、これ?」


ホライズン 鷲頭 
我々はいただいた資料をもとに、53件すべて精査しました。精査は不動産担保物件だけではありません。実際の債権の返済履歴もチェックいたします。それでこういう数字になりました。53件の案件のうち、値段がついたのが13件。値段がつかない物件の査定額が1円、というのが慣例です


三葉銀行社員
「慣例って・・・」


三葉銀行 柴野
「額面総額は1023億1280万円。買い取り価格93億1047万41円」


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三葉銀行社員
「93億ってムチャクチャじゃない。額面総額のね・・・」


ホライズン 鷲頭
「9,1%ですね」


三葉銀行 柴野
「どういうことですか、説明して下さい!」


続く
2015/11/27

『ねつ造』記事と『風雪の流布』 

先ほどの補足をかいておこう。私は公文書がなかなか出てこないから、もしかしたら東京都も仲間なの?と疑っていた。でもそうではなったみたい。


私が半年がかりで手に入れたこの公文書はとても大きな価値をうむはずだ。このたった一枚の紙切れが、今すすめられているある大きなプロジェクトを吹き飛ばすかもしれないからだ。


だってここに並んでいる数字が、あり得ない!!


私は不思議だなぁ〜。肩書きだけは立派な人達が大勢いるのに。あの人達はメディアで流される情報を信じて、誰一人自分の目で確かめようとしなかったのかしら?この数字をみたら、真っ青になるんじゃないかしら?


そういえば、先日、よく似た事件があったなぁ。


◇  ◇  ◇ 


仕手筋元代表立件へ 大量注文指示、相場操縦疑い 東京地検特捜部 産経ニュース 2015.10.26 05:00


大手仕手グループ元代表の男性(74)が、インターネットの株式サイトに根拠のない情報を書き込んで保有株の価格を不正につり上げ、約60億円の売却益を得ていたとされる疑惑で、元代表がサイトの会員らに大量の買い注文などを指示していたことが25日、関係者への取材で分かった。東京地検特捜部は金融商品取引法違反(風説の流布、相場操縦)容疑での立件に向け、詰めの捜査を進めているもようだ。


関係者によると、元代表らは「般若の会」という団体名で株式サイトを運営。平成23年11月以降、サイトのコラムに、元代表の実名で、当時大証1部に上場していた化学メーカー「新日本理化」を示唆し、過去に元代表が行った仕手戦で株価が急騰したケースを示しながら「同じように大相場になる」などと株価が上昇するかのような書き込みをしたとされる。


金商法は、株価を変動させる目的で根拠のない情報を流す行為を「風説の流布」として禁じており、特捜部はサイトへの複数回にわたる書き込みがこれに当たるとみて捜査している。



さらに、元代表は書き込みを繰り返す一方、サイトの会員や親族らに、大量の買い注文を断続的に出して意図的に株価を上げる「買い上がり」などを電話で指示していたという。特捜部はこうした行為が金商法が禁じる「相場操縦」にも当たるとみているもようだ。


一連の行為により、同社の株価は急激に上昇。元代表らは別の3社の株でも同様の書き込みと買い上がりなどの指示を繰り返して保有株を売り抜け、総額約60億円の売却益を得ていたという。


元代表は昭和50年代から平成のバブル期にかけて派手な仕手戦を演じ、「兜町の風雲児」と呼ばれた。近年も、ネット上などでその動向が投資家らの高い注目を集めている。


◇  ◇  ◇ 



2015/11/27

都庁と都議会へ インチキのカラクリを証明してくれる『公文書』!! その2

●インチキを証明する公文書を手に入れる!!


帰りに都庁に再び行き、公文書の閲覧を申請した。製薬企業のロビー活動にメスを入れるには批判しているだけじゃダメ!!証明する証拠を手に入れなければ!


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と、いうことで今年、これまで何度も申請した。けれど、そのたびにこう言われてがっかり。


「提出されているはずですけれど、まだ閲覧にまわってきていません。もう少し待ってくださいね」


仕方がないから一ヶ月に1度、髪を切りに行った帰りに、ついでに都庁に行って閲覧申請することにした。こうすると、自動的に一ヶ月に一回は、確かめに行くことが出来る。忘れっぽい私にぴったりの方法だ。


今までは都庁の職員の方も、忙しいんだ、と思っていた。


でもなぁ。今日も同じことを言われたらさすがにおかしい・・・。だって、その文書が都庁に提出されてからもうすぐ1年。これでは書類を役所に提出する意味がないじゃない。


先ほど議員さんに公文書のことをお話したら、興味を持って下さった。都庁の職員の方は「先月もいらっしゃいましたね」と言う。私のことを覚えていてくれたようだ。そこで「今、議員会館に行って議員さんにお話したばかりなんです。もし今日も出ていなかったら、議員さんにお願いしようと思います」と言った。


私が申請している書類には、先方にとったら不都合な内容が書かれているはずだ。だから先方はわざと役所に提出していないことが考えられる。しかしその場合、今ここにない、ということが、後々問題になるだろうーーー


そういう説明をした。


職員の方は、私がスーツをきているせいか「この人、議員会館に本当に行ったんだ、困っているんだ」と思ってくれたのだろうか?「確かにおかしいですね・・・」という感じでいつもよりも熱心に対応してくれた。


すると、いつも探していた棚とは違う場所にあることがわかった。


やっと最後の書類が揃った!!


これでインチキが証明できる!!


あの「ねつ造記事」も、堂々とウソだと言える。


やった〜!!



2015/11/27

都庁と都議会へ インチキのカラクリを証明してくれる『公文書』!! その1

●超低出生体重児(未熟児)の『育児相談』が、なぜ『母親の治療』にすり替わったのか?


11月のある日。ある都議会議員の方が主催した秘密の会議に出席させていただいた。その議員さんは、これまで私が追ってきた2つの問題に関心があるそうだ。発達が遅れている子ども達の育児・教育支援と製薬企業のロビー活動だ。


超低出生体重児(未熟児)の育児支援がなぜ治療にすり替わるのか?その答えるを求めると、やっぱり製薬企業のロビー活動に行き着く。


実は、今年に入ってからある書類を申請するために都庁には何度も足を運んでいた。都議会のビルは、都庁の向かいにあるこの丸いビルだ。何度も来ているのに全く気づかなかった・・・。


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●ブラック病院の悪行の数々にため息


会議のはじめ、インチキをして儲けているブラック病院についてレクチャーを受けた。驚いたことに、被害者の中にはお隣の立派なビルで働く方までおられるそう・・・。説明をききながら、ブラック病院の悪行が何かに似ていると思った。


バブル期に宗教法人が「節税」と称してこぞってやっていた脱税だ。日本の医療は歪んでいる。真面目に仕事をするのがバカバカしくなるほど抜け穴だらけで最悪だ。


宗教法人は聖域だったから、切り崩すのが大変だときいたことがある。医療法人は宗教法人以上に守られている部分があるから、私たちもがんばるしかないかぁ・・・。


ただ明るい兆しも感じることができた。、超低出生体重児の育児支援についてだ。


私は我が国のナショナルセンターである国立成育医療研究センターが整備を進めている「拠点病院事業」を何とかしたいと考えてきた。医療機関と医師を頂点としたヒエラルキーの下で支援が行われてしまうからだ。支援を受けるのは私たちなのに、勝手に決めないで!とずっと思ってきた。


厚労省の『拠点病院事業』の問題点 その2「子どもの心の診療ネットワーク事業」の不都合な真実 (前編)

厚労省の『拠点病院事業』の問題点 その2「子どもの心の診療ネットワーク事業」の不都合な真実 (後編)


今回わかったのは、国会議員に働きかけるよりも、都議会議員でこの問題に関心がある方のほうが、ずっと心強い、ということだった。サッと動いて議会で質問してくれるからだ。「都立病院なら、私が都議会で質問できる。質問して動いてもらえばいい。私は次の選挙よりも、残された時間で何ができるかしか考えていないから一緒にやりましょう」と言っていただいた。


これまでにも議会で質問してくださったそうで、どんな回答があったかも教えてくださった。都立病院の小児科医は、基本的に、小児への向精神薬は慎重に、という考えだそうだ。


私は息子が生まれてからすぐに行動してきた。病院へのアンケートからはじまって、幼稚園や小学校にもいろいろかいたり話し合いに出向いたり。そのたびに少しずつ理解はすすんできた。けれど、やっぱり政治家の働きかけは違うなぁ。


●支援がないから、とりあえず「障害名」はやめて欲しい


息子のような800g、24週という超低出生体重児ならば、支援がなくても家族でなんとか乗り切れるかもしれない。しかし今は22・23週そして出生体重も500g以下の子ども達が増えている。支援がないからといって、とりあえずの「障害名」でお茶を濁さず、一人一人の発達に応じた支援が充実することを願っている。


嬉しい話を聞いた。最近は、障害があるお子さんの親御さん達が「向精神薬を子どもになるべく飲ませたくない」と議員さんのところに駆け込んでくるそうだ。「薬の嫌いなカルト」などとさんざん批判されてきたけれど、もうそういう批判はなくなった。ああ、よかった、と思う。


本当だったら「こころのケア」をおしすすめてきたナショナルセンターが、責任をもって減薬や断薬相談をしてくれればいいのに。それがナショナルセンターの使命でもあるはずなのにね。


続く




2015/11/25

新型出生前診断の問題点 終わりに 神様に生かされた者の使命

いよいよ本格的に動き出した。メディアといっても取り上げるのがテレビなのか雑誌なのかまだよくわからないけれど。でも最後に、私がなぜ、訴えようと思ったのか動機について詳しく書いたおこうと思った。



●細川一医師の誠実さはどこから生まれたのか?


細川一医師は、当時の水俣市では雲の上の人、神様のような方だったそうだ。当時の水俣市はチッソの企業城下町であり、その水俣市の唯一の総合病院もチッソ付属病院だった。様々な記録をあたってみると「心がきれい」「誠実」という数多くの市民の証言が遺されている。


私にはとても不可解なことが1つある。


今とは全く違うあの時代に、細川医師のような立場の医師が、ぶれることのない強靱な精神力を持ち続け、真実を証言した理由だ。番組の中で、水俣病研究会の有馬澄雄さんがおっしゃっておられた事を私も思う。


当時の法律では、なかなか勝てるような状況になかった。だから非常に難しい裁判だったと思います。会社としては、水俣病なんかが起こるなんて、全く予測がつかなかったと言えば、ある意味で済むことですから。



●チッソ側のK弁護士も真面目で勤勉な人


私はチッソ側のK弁護士を知っている。やはり誠実で真面目な人だと思う。企業の側につく弁護士は、企業の論理で仕事をしないといけない。父も会社の幹部だったからなんとなくわかる。バッサリとは切れない、善と悪との境のようなものがあるのかもしれないと今では思っている。


私と水俣病 私と華麗なる一族


●細川一医師の運命を変えた壮絶な体験


調べてみると、あることがわかった。細川医師は、私とは比べものにならないほどの「九死に一生を得る」壮絶な体験をされたそうだ。人は追い込まれてはじめてみえるものがあるという。まさに、そんな感じの心境の変化があったのだろうか。


私が「その時歴史が動いた」の特集の中で、何度も繰り返しみた場面がある。細川医師が、会社から帰宅する車をたびたびとめさせて、眺めていたという「排水口」跡の映像だった。いつか、私も熊本にいって、水俣病記念館を訪れてみようと思う。できればあの「排水口」跡にも、行ってみたいな、と思っている。


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◇  ◇  ◇


歴史上の人物  細川 一 (1901~1970)水俣病を発見、その原因追求に半生を捧げた医師 より一部引用させていただきました 



細川一は明治34(1901)年、三瓶町(現:西予市)津布理で生まれました。教育者であった父:岡金太郎に厳しく育てられた一は幼少の頃から非常に俊秀であったそうです。宇和島中学、佐賀高校を経て周辺では珍しく東京帝国大学医学部に入学、医師の道を志します。


昭和2(1927)年に大学を卒業しますが、同大学にとどまり研究を続け博士号を取り、昭和10(1935)年に朝鮮道立順天病院、そして昭和11(1936)年には日本窒素肥料株式会社(昭和25年新日本窒素肥料株式会社・昭和40年チッソに改名)に入社、恩師であり日窒コンツェルンの創業者野口遵の義弟であった坂本恒夫氏(当時東京帝国大学医学部助教授)の紹介で阿吾地工場付属病院長に就任します。その後昭和12(1937)年大洲市細川家の養子になっています。


当時阿吾地工場付属病院は新設される病院であり、君の思うように造り上げてもよい、ということで細川は勇躍して職に就きます。その後昭和16(1941)年に訳あって水俣工場付属病院長となりますが、すぐに応召され軍医少尉としてビルマ戦線に赴くことになります。


そして昭和22(1947)年、敗戦と同時に帰国、再び水俣工場付属病院長に就任します。この時細川は、当時生還した将兵が誰でも共通して思ったように「奇跡的に生き残ったものの責任として、社会のために仕事をせねば・・・」と真剣に考えたといいます。



最初小さかった水俣工場付属病院も経営はすべて細川に委ねられ、徐々に総合病院としての設備も充実、工場労働者だけでなく地域住民のための医療センターとして理想に近いものを築き上げていきます。


また、会社幹部から「格好がつかないから」という理由で何度も院長室を造ろうと言われても、「院長室を造る費用があったら、診療室や、病室を一つでも多く造ってください」と断っていたそうです。


当時水俣工場では「社員」と「工員」の間では厳然とした差別があり、その差別は病院内にも持ち込まれていました。どんなに順番に並んでいても、本人はおろか、その家族までそれを無視し、当然といわんばかりに先に診療を受ける。その様子を見た細川はそれを嫌い、受付で番号札を配ることにし、それらの差別を一切病院内に持ち込むことを禁じました。



また細川は会社に対しても自由に振る舞ってよく、性格的に合わない営利としての病院経営などしない理想の環境で、自分の研究に没頭できる充実した時期を過ごしていました。


当時の関係者が「細川先生はいわば大学病院みたいなものでした。むつかしい病気だったら開業医がまわすし、患者さんたちも開業医でどうもいかん時は、細川先生に診てもらいよったとです。」というように、同業者からも患者からも信頼のおかれる優れた技量と高い人格、まじめな几帳面さを持ち合わせていました。



◇  ◇  ◇

2015/11/22

茨城県教育委員「障害児出産を減らす方向に...」と発言し批判殺到 フジテレビ



ヤフーにフジのニュース動画が配信されている。

茨城県教育委員「障害児出産を減らす方向に...」と発言し批判殺到フジテレビ系(FNN) 11月20日(金)21時14分配信 Yahoo!
ニュース


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再生したら、先日のみんなのニュース、新型出生前診断前診断の特集にも出演しておられた、ダウン症の書道家、金沢翔子さんがインタビューにこたえている。あらっ、とうとう一人暮らしをはじめんだ。


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●茨城県には筑波大学があるのに、なぜ「日動画廊」にお願いするの?


それにしても、日動画廊の長谷川智恵子氏の発言にはびっくりだ。


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報道をみて目が点になったのは、茨城県には筑波大学があるからだ。どうしてわざわざ日動画廊に教育委員をお願いしないといけないの・・・?


筑波大学は障害がある子ども達の教育に熱心で知られている。「やっぱり筑波を出た子どもは違うね」と教員は皆言っているそうだ。ちなみに私の母校も『茗渓会』、旧東京教育大系だから桐の校章。旧教育大出身の先生は、障害児の教育に熱心だったから、影響を受け、同じような道にすすんだ同級生も多かった。


その他にも、私の周りには障害のある子どもの教育に熱心な教育者が多かった。私をかわいがってくれた人間国宝の三浦小平二先生もその一人だ。小平二先生は、障害のある子ども達のことをかわいがっていた。「お葬式の時に、ダウン症のお子さんがお花を持ってお別れにきていた」と母が教えてくれた。


長谷川さんのご発言は・・・。なんというか、これまで信じてきたものが一瞬で吹き飛ぶような衝撃だった。


●私が考える新型出生前診断の一番の問題


先日のフジの特集を文字におこしたら、本当におおぜいの方がみてくれた。私が考える、新型出生前診断の一番の問題とは、長い間不妊治療をしてこられた女性達の多くが、この検査の抱える矛盾に向き合わないといけない、ということだと思う。


長谷川さんは恐らくご存じないんだろうなぁ。子どもが欲しくたまらない方の中には「障害があってもいいから、子育てをしたい」という方もおられる。そして「もしこの命を諦めたら、2度と妊娠できないかもしれない」という方もおられる。


日動画廊は、創業1928年。日本で最も歴史があるという洋画商だ。当然お得意様の中には、経済界のお偉いさんも多いだろう。


経済界にも障害があるお子さんを育てておられる方がいらっしゃる。妹の同級生には有名企業のオーナーのお子さんがいた。その同級生に兄弟が産まれ、ダウン症だったと母が言っていた。お母さんがすごくかわいがって、父母会などの学校行事に連れてくるときいた。


同じクラスのお母さん達に、ダウン症のことを知って欲しいと、いつも学校の行事には連れてきていたようだ。


しかし、そういった経済力があり、発言力もある立場の方々が、なぜもっと前に出て活動してくれないのかというと・・・同じ経済界でも、たぶん長谷川さんのようなことをおっしゃる方がおられるからじゃないか・・・そんなことを父や母が私に言っていたなぁ。今ならわかる気がする。


●私も怖くなって口にした「もう堕ろせないんですか?」


ただ、私も長谷川さんのことをあからさまに批判できない。あの頃の私だって、何も知らなかったから。24週で産まれた子どもがどのように育つかなど、ほとんど情報がなかったからだ。「お腹の子どもに障害が出るかもしれない」と宣告された時、怖くなって、私も長谷川さんのようなことを思わず口にしてしまった・・・。


「もう堕ろせないんですか?」
そうしたら看護師さんも気の毒そうに、「あのね、サクラさん。法律ではもうダメなんです」と言っていた。


ニュースの中で乙武洋匡さんの意見を取りあげていた。身につまされる。


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「長谷川センセイ、私も生まれてこないほうがよかったですかね」


私だって、ダウン症の方が一人暮らしをしている姿をみて、あの時発した自分の言葉に少なからずショックを受けているのに・・・。何も知らないで命を諦めてしまった方は、どう思っておられるのだろう。


◇  ◇  ◇


茨城県教育委員「障害児出産を減らす方向に...」と発言し批判殺到フジテレビ系(FNN) 11月20日(金)21時14分配信 Yahoo!ニュース


茨城県の教育委員が発した「障害児の出産を減らしていける方向になったらいい」という言葉に、批判が殺到している。これを受け、委員は辞任する意向を示した。


20日、FNNの取材に応じたのは、茨城県の教育委員を務める長谷川 智恵子委員(71)。


長谷川委員は「こんなに、いろんな反響があると思ってもいない。会議が、もう終わって自由発言の時の、本当に5分くらいの中で...」、「不用意に、そういう言葉足らずで申し上げたことで、障害者の方や、また、そのご家族の方に、とてもマイナスな否定的な意味にとられたことが本当に申し訳なく思っている」と話した。


謝罪するきっかけとなったのは、障害児をめぐる発言だった。
茨城県によると、「茨城県では(障害児出産を)減らしていける方向になったらいい」と発言したという。


18日、県の教育会議のあとに行われた自由討論。


11月4日に特別支援学校を視察した長谷川委員は、手厚い体制に予算がかかっていると指摘し、茨城県によると「職員の人数が多く、大変な予算がかかっていますね」、「妊娠初期に(障害の有無が)もっとわかるように、できればと思います」、「それがわかれば、もっと早い時期におろすこともできますよね」と話したという。


この発言に、東京都の教育委員を務め、自らも障害を持つ乙武洋匡さんは自身のツイッターで、「長谷川センセイ、私も生まれてこないほうがよかったですかね」と不快感をあらわにした。


金沢泰子さん(71)は「最初に障害って告知された時は、地獄に突き落とされますけども、こんなにいい子になる可能性を持っているのに障害だと思われるから、選別することは、いかがなことかなと思います」と話した。


隣に座る娘の翔子さん(30)は、ダウン症。


翔子さんは、彼女ならではの世界観を書道で表し、その腕前は、大河ドラマの題字を務めるほど。
10月からは一人暮らしも始めた。
翔子さんは「一人暮らしになっても寂しくないし、大丈夫です」と話した。


長谷川委員の発言について、母親の泰子さんは「絶対にそんなことやめてと、わたしは大きな声では言えませんけど、もっと障害者をみんなが理解すればいいんじゃない。かわいそうだとか、手がかかるだとか、家族が大変だなんてことじゃないんですよ」と話した。


長谷川委員は会議の翌日、発言を撤回し謝罪した。
長谷川委員は「妊娠初期という段階でと言ったことが、それが結局『生まれてこなければ良かったんだ』につながってしまったという、非常に残念なことでございます。大変ご迷惑をかけて、本当に皆様に申し訳ないと、今、思っているところでございます」と話した。


長谷川委員は、教育行政に大きな影響を与えてしまったとして、教育委員を辞任する意向を示している。



2015/11/19

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その16

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その15 の続き


●今も続く患者の苦悩


第一次訴訟の勝訴から現在まで、患者達はチッソ、そして国や県を相手取り多くの裁判を争ってきました。


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しかし水俣病は今も新たな問題を生み続けています。


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国の認定基準でたとえ症状が出ていても、国が定めた2つ以上の症状を満たさなければ、水俣病とは認められません。そして国は、この認定基準を見直そうとはしていません。患者が増えるとチッソの補償額が膨大になり、補償制度そのものの存続が危うくなるからだと考えられています。病に苦しみながら、認定を請求している患者はおよそ6800人にのぼっています。


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水俣市では水俣病について多くの人に知ってもらいたいと、15年前に資料館が造られました。見学者は水俣病はなぜ起こったのか、なぜ、今のその問題が終わっていないのかを学んでいます。ここでは水俣病を背負って生きている患者や家族が、自らの体験を語っています。


●細川先生は本当の人間だった よう言わったったい


第一次訴訟の原告の一人、浜本二徳さんです。浜本さんは細川の証言の重みを今も感じています。


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「細川先生の証言がなかったら、患者は惨めだったと思います。細川先生は医師で人間なんですけれども、ああ、本当の人間だったね。よう言わったったい」


●細川一が残した言葉 「人命は生産より優先するということを、企業全体に要望する」


日本が経済成長という名の下に躍進していた時代、そこに生きた細川は孤独に水俣病と向き合ってきました。その末にたどり着いた言葉の直筆のメモがあります。


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「人命は生産より優先するということを、企業全体に要望する」


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〜完〜
2015/11/19

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その15

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その15 


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松平定知アナウンサー

こうやってみますと、細川証言というものは、第一次水俣訴訟の勝訴に非常に大きな影響を与えたという、


水俣病研究会 有馬澄雄さん

そうですね。当時の法律では、なかなか勝てるような状況になかった。だから非常に難しい裁判だったと思います。会社としては、水俣病なんかが起こるなんて、全く予測がつかなかったと言えば、ある意味で済むことですから。


チッソが裁判で主張することが、結局、責任を取ろうとしない。一方で患者の悲惨な状況がありますので、(細川一は)いろいろな事を背負って自分が本当のことを証言しないといけないということで、細川証言が成立したと思います。


松平定知アナウンサー

さあ、有馬さん、歴史を動かしたのは何だったのでしょう?


水俣病研究会 有馬澄雄さん

結局、生産をやって、利潤を追求するんですね。第三者というか、他の人達を傷つけることはできないと、いうようなことを、つまり、人間の生命を守ることは第一義であり、企業の責任を問うことがはっきりしたことが、1つ。


もう1つは、患者さん達はチッソで成り立っているような地域経済の中で、全く孤立していた訳で、それが裁判でハッキリしたことで、表舞台というか、堂々と、自分達が悪いんじゃないということを言えるような立場になられた、ということはあると思います。


松平定知アナウンサー

どうもありがとうございました。


この第一次水俣病訴訟で、患者側の勝訴になったという、これは細川証言が果たした役割は大変多きかった訳でございますが、水俣病の問題は今も続いています。番組の終わりでは、水俣病の現状と、細川一の言葉を紹介しながら、終わりにしたいと思います。


続く


2015/11/16

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その14

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その13 の続き


●臨床尋問 





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昭和45(1970)年7月 4日、癌研究付属病院(東京)————


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弁護団は裁判長、弁護士がともに入院先の病室に赴き、尋問する臨床尋問を行うことを決めます。しかし細川の体調をかんがみて、病院側からは一度きりの尋問しか許可されませんでした。


この唯一の機会に細川の語る真実とは何か————


●チッソは水俣病の原因が有機水銀と認識しながら、工場排水を流していた


昭和45(1970)年7月 4日午前10時20分細川の臨床尋問がはじまります。細川は実験をはじめた時のことから淡々と話はじめました。


やがて弁護士は排水を与えて発病した猫400号実験について問います。
「発病してから先生、どうなさいましたか?」


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細川は答えました。
「びっくりしました。これはもう、水俣病じゃなかろうかと。これは報告すべきだと考えましたから私が行きました」


弁護士の問いは核心へと向かいます。
「そうしますと、技術部の方も、この猫400号については知っていらっしゃるわけでございますね」


細川は長い間言えなかった一言を口にします。
「ええ」


2時間に及ぶ臨床尋問が終わりました。


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そのわずか3ヶ月後、昭和45(1970)年10月13日細川は息を引き取りました。69歳でした。


●昭和48(1973)年3月 20日 患者側の勝訴


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そしてその時、昭和48(1973)年3月 20日、熊本地方裁判所にて判決が言い渡されます。「チッソは水俣病の原因が有機水銀と認識しながら、工場排水を流していたという過失責任がある」患者側の勝訴でした。


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裁判官は細川の証言について「400号の発症状況を報告するのは極めて自然であり細川に事実を曲げる必要性が毛頭ないこと。それが意味する重大性から細川の記憶違いはない」と断定していました。


水俣病と向き合ってきた細川が、最期にやっと語ることのできた真実。それが患者勝訴の決め手をなったのです。


続く