2014/03/25

小さく生まれた子供を社会でどう支えるか「その16」 必要なのは教育者の温かな眼差し

小さく生まれた子供を社会でどう支えるか「その15」 発達検診の問題点  の続き

[ 必要なのは教育者の温かな眼差し ]

高校生の時、個人でやっている塾で数学と英語を教わっていた。塾の先生は近くの国立大学の大学院を出た男性で奥様も有名私大出身だった。ある時成績が悪く悩んでいる私に二人が言うのだ。「世の中にはバカな子どもがいて、いくら教えても分数すら理解できないんだよ。あなたは大丈夫」と。


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(2007/11/08)
渡邊 奈々

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その話を夫にしたことがあった。夫はびっくりしたように「その子はバカなんかじゃないぞ」と私に言った。


夫は大学院時代に家庭教師のアルバイトをしていたそうだ。子どもが好きでもともと大学教員を目指していたからだ。ある時、軽度の知的障害がある小学生のお子さんのお母さんに、「中学は普通学級に進学させたい」と頼まれたという。そのお子さんは分数がわからないために、「普通学級は無理だろう」と担任に言われたそうだ。


そこで、りんごを真ん中で割り、「こうするとりんごが一個しかなくても、喧嘩しないで二人で食べられるよ」と、一緒に食べたそうだ。すると、あっという間に二分の一が理解できるようになり、無事進学したそうだ。


夫は「その子は知的にちょっと遅れがあるのかもしれない。でもたとえ障害があっても簡単に諦めてはいけない。その子を理解し、教え方を工夫すれば大きく成長する」と私に言ったのだ。


私はこのエピソードが心にひっかかっている。親の愛情や情熱、あるいは教育の格差が、子供の人生を大きく変える可能性があるからだ。発達の遅い子供にとって必要なのは、受験テクニックのような教育指導ではない。


きっとあの塾の先生は、勉強とは偏差値を上げること、良い得点をとることだと勘違いしていたんだろう。その考え方は海外で通用するんだろうか。


夫がお世話になったカナダの大学院には、世界中から人が集まってきていた。彼らには「学ぶ」とか「教育」がどんなことなのか、教えてもらった気がする。


漢字の点が取れないからと、息子に毎朝テストに出る漢字を練習させたことがあった。そうするともちろん点数が上がるが、これは教育なんかじゃないと反省しやめてしまった。カナダにいた時のことが頭にあったからだ。


そもそも息子は、「将来●●になりたい」とか、「海外に出ていって●●をしてみたい」などという目標があって勉強をがんばっているわけではない。


これからの日本を取り巻く環境は厳しくなるに違いない。就職した会社の経営者が、ある日突然、中国系やインド系になる、ということだって当然あるだろう。カナダに住んでいた時、中には「母国の戦火から逃れ、難民となってカナダにたどり着いた」というような人もいた。そういう人達は必死に這い上がろうと寝る暇を惜しんで勉強するのだ。親にいわれて勉強するようでは、将来どの道にすすんだとしても、結局生き残っていけないと思ってしまう。


そう考えると、発達が遅れている子どもにとって必要なのは、その子の力を最大限に導き出そうとする教育者の温かな眼差しだと思う。「あれができない。これが足りない」と常に遅れを指摘されたら子どもは「産まれてきて幸せ」と思えるだろうか。何かを一生懸命がんばろうと思うだろうか。


いくら支援が不足しているからといって、その前にやるべきこともあるんじゃないだろうか。力のある教員をきちんと評価することも大切じゃないかと思う。


発達の遅い子供の教育は量より質だ。一時期ブームになった「新しい公共」にだって負の側面がある。私は民間がいいとは必ずしも言えないと思っている。民間のNPO団体も増えたが、中には人件費を安く抑えるために、あるいは効率を優先するために、学生アルバイトに療育を任せる、ということもあるからだ。


アルバイトが一概にダメだとは思わないけれど今の学生を取り巻く状況は一変している。私達の頃と違って就職するのも大変だし、生活も豊かではない。だから学生に頼っていいのか私にはわからないのだ。


夫のようにキャリアに結びつけばいいけれど、もしも責任だけ重くて給与が安かったり、あるいは事故が起きた時に責任を取らされたりしたら、と思ったりもするのだ。彼らの善意に頼ってばかりもいられないだろう。


先行き不透明な時代だからこそ、もっと公教育にお金を投入してくれればと願っている。


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小さく生まれた子供を社会でどう支えるか「その17」 すべてを個人の「こころの問題」にしないで欲しい

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