2014/07/17

【水俣は問いかける 友よ、法廷では敵だった】 真の友情とは

母が私に私立小学校の受験をさせたのは、幼稚園に馴染めず泣いて家に帰ってくることが多かったからだ。受験勉強は嫌いだったけれど、合格した小学校は素晴らしく居心地が良い。隣の席になった女の子が仲良くしてくれたからだ。


その時歴史が動いた 「わが会社に非あり~水俣病と向き合った医師の葛藤~」

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白装束姿、黒地に「怨」と「水俣病死民」を染め抜いた旗を掲げる水俣病患者の方々


彼女は頭がよくて、明るくて、クラスの人気者になった。私は彼女がいたから小学校に行くのが大好きになった。


ところが中学年の時だった。彼女のお父様が突然亡くなってしまった。クラス中がショックを受けた。


彼女は薬学部に進学し、ある製薬企業に就職した。


そう、今、問題になっているワクチンをつくっている会社だ。


「今にきっと社会問題になってしまう」と思っていても、それを行動にうつしていいのか悩んできたのは、彼女のことが頭をかすめるからだ。製薬企業に就職したのはきっと「多くの患者さんを救いたい」という純粋な気持ちがあったのだろう。


しかし運命とは皮肉だ。


原発事故が起きてから、よく「水俣病」が引き合いに出される。ため息をつきながら、様々な記事を読んできた。私の中に罪悪感があるからだ。


そんな時、目にしたのがチッソの代理人であり、私達家族もよく知っている弁護士についての記事だった。先生にこんな運命のいたずらがあったなんて知らなかった。なんとなく、今の自分と似ているような気がする。


記録としてやっぱり残しておこう。


はじめて先生にお目にかかった時、面食らってしまった。時代劇に出てくるような悪代官のような人を想像していたからだ。「水俣病」に関する本を読んでいるうちにそう思い込んでしまったようだ。チッソの弁護をするくらいだから「悪い人に違いない」と。


記事の中に「千羽君きつくなったな」という先生の言葉がある。先生らしいと思う。


先生のお父様は加嶋五郎という著名な弁護士だったそうだ。今のブリヂストンの基礎となった石橋財閥の発展に貢献した方だったそうだ。父は「おぼっちゃん育ちだから弁護士には向かない」というようなことを私に言っていた。でも、この記事を読んで先生は先生の生い立ちがあるからこそ、苦労されたんだなあ、と思った。


私は高度医療で救命された元患者だが、同時に薬害の被害者でもある。幼い頃にはわからなかった人の心や痛みが少しは理解できるようになったようだ。あるいは地道に勉強し、患者のために体を犠牲にして働く友人達の姿をみるうちに変わったのかもしれない。


今になれば、若い頃の中途半端な正義感ほどたちの悪いものはないと思うのだ。科学技術には光と影がある。そのどちらか一方だけを強調してはいけないのだと思う。


そうは思っていても、今回のビジネスのやり方はやり過ぎじゃないのかな。もう我慢しなくてもいいよね。一方的に譲歩するだけの関係では、友情とはいえない。


先生と同じように友情は友情、闘うべき時は闘う。それが本物の友情じゃないのか。この記事を読んだ時、そう思った。


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水俣は問いかける7 友よ、法廷では敵だった 2011.6.27 朝日新聞


水俣病をひき起こしたチッソの過失を裁判で立証したくても、証人のなり手がない。弁護団は頭を抱えていた。損害賠償を求める第1次訴訟の審理が熊本地裁で進んでいた1970年のことだ。


裁判に協力的だったチッソの労組役員は「証言したらクビになる」と二の足を踏み、工場周辺の住民は「チッソに盾突いたらこの街では生きていけない」と尻込みした。


弁護団がやむなく証人として呼んだのが、原告患者が発症した前後の57~60年に水俣工場長だった西田栄一(にしだえいいち)(故人)だった。事務局長千場茂勝(せんばしげかつ)(85)をはじめ7人の弁護団は、チッソが提出した資料の山と格闘し、工場排水をネコに与えた実験の台帳に目を留めた。


「374」の番号を割りふられたネコが「発症」――。熊本大の有機水銀説に反論するため、チッソが59年発表した「見解」では、ネコ374号は「発症せず」とされていたのだ。千場らは次々に尋問に立って、こうした矛盾点を突いていった。2日目の証人尋問で、西田は「水俣病の原因は工場排水」と認めた。


「千場君、昔に比べてきつくなったな」チッソ側代理人の弁護士加嶋昭男(かしまあきお)(83)は面食らった。千場と最初に会ったのは東京・霞が関の建設省。2人はともに53年入省のキャリア官僚だった。


加嶋は東京出身。東大在学中、司法試験に合格したが、若いころ内務省に内定しながら弁護士を選んだ亡父五郎(ごろう)に勧められ、建設省に入った。酒をよく飲む職場の慣習に、「健康を損なうのでは」と不安になり、1年余りで辞めた。その後は父親の弁護士事務所に入って約30社の顧問業務を手がけたが、その1社がチッソだった。チッソの顧問弁護士は父の代からだ。


一方の千場は熊本生まれ。チッソとの縁は戦中にさかのぼる。今の熊本大工学部在学中の44年に動員され、水俣工場で戦闘機の風防ガラスを磨く作業に明け暮れた。


戦後、地元の新制中学の教員に採用され、国家公務員試験を受けるよう同僚から勧められた。中央大の夜間部に通い、建設省に入ったものの学閥社会の役所に嫌気がさし、勤務の合間に司法試験の勉強を続けて58年に合格した。


加嶋が世田谷に住んでいた63年に、労働問題専門の弁護士になった千場が自宅を訪ねてきたことがあった。千場は「熊本へ帰る」と告げた。その後、千場が水俣市職員労組の役員から水俣病患者のために裁判を起こすよう依頼され、6年後に法廷で相まみえることになろうとは、2人とも夢にも思わなかった。


法廷で同期の友と闘う日々が始まった。


第1次訴訟は、千場にとって苦しい裁判だった。チッソによる患者切り崩しを恐れて提訴を急いだ結果、準備不足がたたって思うように立証が進まない。千場は支援者の手厳しい批判にさらされた。


加嶋にとってもこの裁判はつらい経験だった。傍聴席から怒号が飛んできたり、閉廷後、ゲバ棒を持つ支援者に何度か追われたりした。警察官に守られながら裁判所を出た日もあった。「胃潰瘍(いかいよう)になりそうでした。だけど、僕は顧問弁護士だから、逃げるわけにはいかない」



熊本地裁は73年、患者側勝訴の判決を言い渡し、一審で確定した。千場らは続いて、どんな症状があれば水俣病と判断するかが争われた第2次訴訟や、チッソに加えて国や熊本県の責任も問う第3次訴訟を起こした。


だが、司法が原告患者を水俣病と認めても、行政は認めない。その隔たりは今も埋まらないままだ。水俣病の裁判に取り組んだ歳月は2人とも28年に及ぶ。


(中略)


いつのころからか、2人は年賀状や挨拶(あいさつ)状をやり取りするようになった。「仕事上のことと、千場君と友人であったことは別ですから」と加嶋は言う。


 千場は44年間在籍し、水俣病裁判を闘う拠点だった共同法律事務所を今年、辞めた。加嶋は今もチッソの顧問弁護士を続けている。(田中啓介)


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