2014/08/15

69回目の終戦記念日 ペリリューの戦い『サクラ、サクラ』

今日は終戦記念日だ。


中学・高校時代の同級生のお祖父様は、最後の陸軍大臣阿南惟幾だった。


世紀の自決/阿南惟幾


そして二人いる仲人のうち、お一人は元特攻兵だった。若い頃は、戦争をするのは悪い人達と単純に考えていたけれど、自分の父が軍とともに資源開発をしていることを知ると、いろいろ思うことがある。


「アルジェリア方式」吹き飛んだ安全神話  2013年1月26日 日本経済新聞より一部引用


太平洋戦争ぼっ発直後、旧日本軍はスマトラ(現インドネシア)の製油所を 真っ先に制圧した。設備の復旧・運営にあたったのが、日本の海外でのプラント建設の源流だ。以来、原油や天然ガスを掘り出したり、石油化学製品を生産したりするプラント建設で、日本企業は存在感を高めていった。



週刊文春7月24号に、第二次世界大戦末期、パラオ諸島にあるペリリュー島という美しい島で、多くの日本兵が玉砕したというエピソードが掲載されていた。こういう話を全く知らない自分が、腹立たしくなる。


阿南惟幾は、表向き「強固に本土決戦を主張した」といわれていけど、そのためにこれだけ多くの犠牲があったということなのだろうか。今の平和がこうした方々の犠牲のうえにあるということを日本の若い人達に全く教えないということが、戦後の平和教育だったのだろうか。私達が今、平和に暮らしているのは誰のおかげなんだろうか。


太平洋戦争研究会代表の平塚柾緒氏のお話を一部引用させていただく。


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ペリリュー島には飛行場があり、航空隊がいた。当時、この飛行場は東洋一と言われていた。米軍にとっては、そんな島をそのままにしておけない。それで起きたのがペリリューの闘い。


戦闘は九月十五日にはじまった。ペリリュー守備隊の日本軍は約一万人。米軍の総兵力は四万二千。米軍は上陸する十日ほど前から、爆撃と艦砲射撃を行ったため、周囲の山がハゲ山になってしまうほどだった。


米軍の指揮官は「三日で陥落するだろう」と考えていた。だが、予想は裏切られた。ペリリュー島、後に米軍の五つの激戦地の一つの数えられることになる。


上陸を試みたのは、アメリカの精鋭部隊である第一海兵師団。ところが、一ヶ月もたたないうちに、半数が死傷。全面撤退を余儀なくされた。


その後、再上陸した米軍の猛攻撃にあうも日本兵は洞窟に籠って持久戦を展開。戦闘は二ヶ月にも及んだ。


「ペリリュー島の日本兵は、一日でも戦闘を長引かせるのが使命でした。日本の本土決戦に向けた時間稼ぎのため捨て石となったのです」


(中略)


ペリリュー島の指揮官は、中川州男大佐。彼は敵に包囲されても戦闘を続けようとしたが、弾薬や食料、水すら底を尽き、それも叶わない状況となった。


十一月二十二日、中川大佐はパラオ本島の師団本部に、「通信が断絶する恐れがあるので、戦闘の最後に報告できないだろう。サクラを連送したら、それが最後の合図だ」と打電した。


そこから抵抗を続けること二日。師団本部はついに最後の電文「サクラ、サクラ」を受け取ることになった。中川大佐は自決。生き残った部下たちも次々に突撃していったのだ。約一万の日本兵のうち、捕虜を含め生き残った日本兵はたった百二十人ほどだったという。


(中略)


ペリリュー島にある慰霊碑には、米太平洋艦隊司令長官のミニッツが書き残した文章が記されている。


<諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって闘い そして玉砕したかを伝えよ>




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