2014/10/21

被害者や遺族になってはじめてみえてくるもの 岡村勲弁護士の闘い

自分が超低出生体重児の母親になってはじめて痛感した。この世には、個人の力だけでは解決できない困難があることだ。


犯罪被害者のための新しい刑事司法【第2版】犯罪被害者のための新しい刑事司法【第2版】
(2009/11/20)
守屋 典子、高橋 正人 他

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私が元主治医である「心の専門家」と闘ったのは、彼らが私達母親を一方的に「一人では何もできない社会的弱者」と決めつけ、政策を決めてしまっていたからだ。元主治医は精神科医だった。育児の悩みのすべてを「精神疾患」や「精神障害」とされると、社会的支援が充実しないままだ。


はじめは話し合えばわかりあえると思っていた。


しかし、元主治医の立場とは、厚労省が決めた大まかなあらすじに沿って、報告書を出すこと。「話し合いなどしても意味がない」と後で聞いた。


事実かどうかわからないけれど、頷く部分は大きい。


「子宮頸がんワクチン」の被害者と、医療者との対立をみていたら、元主治医を懸命に説得しようとしたことを思い出した。


私は元主治医を説得するために、岡村勲弁護士の闘いの話をした。


岡村弁護士は第一東京弁護士会会長や日本弁護士連合会副会長などの要職を歴任した著名な弁護士だった。1997年山一証券の代理人をしていらした時に、株で損をした男性に逆恨みされ、奥様を殺害された。


遺族になってはじめて、被害者のおかれた厳しい現実を知ったそうだ。裁判がはじまると、犯罪被害者の権利拡大のために立ち上がり、「犯罪被害者の会」の初代代表幹事に就任した。


当時、私は二つの意味で衝撃を受けた。


一つは、「私達家族も殺されていたかもしれない」という恐怖である。実際父も私に「とても人ごととは思えない」と言っていた。


もう一つは、岡村さんが法廷で奥様の遺影を被告人に向かって高々と掲げたことだった。


遺影の持ち込みは、今では当たり前だが、当時は持ち込んでいけない決まりだった。岡村さんのこの行動により、認められるようになったのだ。


報道で岡村さんの姿を知り、涙した方は多かったのではないだろうか。自分の愛する妻が殺されれば著名な弁護士であっても心が乱れる。人として当たり前の姿がそこにあった。


岡村さんの闘いから私は「人は立場がかわれば、見える景色が違う」ということを学んだ気がする。


そういう心情を理解しようとせず、「科学的根拠」だけで対話をしようとするのは無理があるだろう。そもそも入り口が露骨なロビー活動だったのだ。それに対しては、「何もないのですか」という気持ちがある。


私は、教育参入へのルールをまじめに考えないといけない時期かなと考えている。


ネットの諍いをみているうちに、私は間違っていたかもしれないと思うようになった。夫に、ある弁護士さんのところに行きたいと言ったら「いいんじゃない」と言ってくれた。次のアクションを起こしていこうかな。


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亡き妻のために法律をかえた岡村勲さんの10年の激闘|アンビリバボー より一部引用



1998年2月18日、第一回公判が開かれました。弁護士になって38年、被害者の遺族として傍聴席で裁判にのぞむのは初めてでした。法廷では省略された言葉が飛び交い傍聴席から聞いているだけでは理解不能で公判の日程も一方的に決められてしまいます。


その上、被害者遺族は発言できないため妻を侮辱する言葉に黙って耐えるしかありませんでした。1999年9月6日、判決の日。検察側は死刑を求刑。岡村勲さんも当然死刑を望んでいました。しかし、判決は無期懲役。


それまで岡村勲さんは被告に求刑よりも軽い判決が下された時は弁護士としての満足感を感じていたと言います。そこに悲惨な被害者がいることなど考えもしなかったのです。愛する妻を亡くした絶望と40年近くにわたって打ち込んできた弁護士という仕事に対する自責の念。岡村勲さんは大きな2つの十字架を背負うことになったのです。


そんなある日、眞苗さんの友人から手紙が届きました。そこには生前の彼女のエピソードが書かれていました。妻の笑顔が胸に浮かび岡村勲さんは、こんな辛い思いを誰にもさせてはいけないと決意しました。


事件から3年、岡村勲さんは犯罪被害者の会「あすの会」を設立。あすの会の会員は日に日に増えていきました。そして司法制度の改革を目指し政治家や役人への働きかけをスタート。


岡村勲さんが最初に訴えたのは犯罪被害者の権利。これまで傍聴席で見守るしかなかった犯罪被害者が法廷の柵の中に入り、裁判に参加できる制度を提案しました。しかし、専門家たちから予想以上の反対意見が。


1990年に最高裁が「裁判は国の秩序を守るためのもので、被害者のためのものではない」と明言。それ以来、法廷は検察と被告が争い裁判官が判決を下す場であって、そこに被害者の居場所はないというのが司法の世界の常識となっていました。


そこで岡村勲さんは被害者が裁判に参加できる制度が確立されているドイツを訪問。そして署名活動を開始。犯罪被害者のための裁判の実現を専門家ではなく直接国民に訴えたのです。


その地道の運動の輪は徐々に大きくなり署名活動は全国に広がっていきました。そして1年半にわたる署名活動で55万に及ぶ署名が集まりました。それらを携え岡村勲さんたちが向かったのは首相官邸。小泉純一郎さんのもとへ直接訪問し犯罪被害者の実情を懸命に訴えました。


すると小泉元総理は犯罪被害者の権利確立について取り組むことを約束。大きな一歩となりました。しかし、専門家たちからはなおも反対意見が相次ぎました。1年に及ぶ検討会が終わり、内閣府から基本計画案が送られてきました。


そこには被害者の法廷への参加も被害者への補償もすべて盛り込まれていました。さらに、そこには「裁判は被害者のためにもある」とハッキリと書かれていました。最高裁の判例をくつがえす言葉でした。


そして2007年6月20日、いくつかの修正を加えたのち被害者が裁判に参加できる制度など岡村勲さんの思いが盛り込まれた法案が圧倒的多数で可決されました。それは日本の裁判のあり方が変わった瞬間でした。


眞苗さんの事件から10年が経過していました。


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