2014/11/19

『社会貢献』と『偽善』 「こころのケア」「いのちの教育」を考える

ある団体を主催する人が言っていた。「社会に貢献なんていったって、ほとんどの場合、皆自分のためにやっているんだよ。そこを勘違いすると『偽善』だよね」。


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(2008/10)
川端 裕人

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その通りだと思った。


10月31日の毎日新聞オピニオンに「こころのケア」「いのちの教育」への痛烈な批判が掲載されていた。


調べてみると「いのちの教育」とよばれる授業は、1997年に起きた「神戸連続児童殺傷事件」2001年に起きた「附属池田小事件」、2004年に起きた「佐世保小6女児同級生殺害事」、2007年に起きた「会津若松母親殺害事件」などの事件が相次いだことで、全国の教育現場に広まったようだ。子ども達には「こころのケア」が必要だ。「いのち」の大切さを教えよう、という訳だ。


しかし記事には、その後も、3ヶ月で7人の中高生が自死し、小学校の先生が自分の受け持ちの教室で自死するなど、深刻な事態が起きていることが書かれていた。


学校の先生が考えそうなことですね。私には「いのちの大切さ」って、学校で教えるものなの?という疑問がある。こういう事件は、授業をしたところでなくならない。事件化する原因は何か別のところにもあるんだよ。


それよりも、私は公立校に子どもが入学してはじめて「不都合な真実」を知った。公立校で行われる「出前授業」や「講演会」には、「偽客(サクラ)」が参加しているのだ・・・。


保護者は一年に一度、PTAの仕事を手伝わないといけない。保護者に割り振られる仕事の中に「講演会をききにいく係」があるのだ。講義をきいて、質問したり感想を書くだけなので、「楽」。だから人気がある。


「公開授業」「講演会」は参加するとそれなりに面白いし、意義がある。でも、わざわざ参加したいと思わない。だって、「学校」だもの。「よーし学校に行こう!」と思う大人は少ないと思う。それよりも気の毒なのは、その役を引き受けるために有給をとらないといけない保護者だ。先生もいつも忙しそうだし。


「そこまでして『講演会』や『出前授業』をする必要があるんですか?」役員になった時に会長に直談判したことがある。「いっそのことやめてしまえば仕事も減るし、会費も安くできますよ」。けれど、結局うやむやになってしまった。「やらないといけない決まりだから」・・・だそう。


入らないと酷い目に遭うことも…PTAの役員決めが本当に大変 NAVERまとめ より一部引用

近年、PTAの役員決めについての論争が表立って目立つようになってきました。ざっくりですが、まとめてみました。 更新日: 2014年04月22日


えふちゃん@いつの間にか4月…orz@nochan_mom

PTA改革は、誰かがバッサリやらないと出来ないね。長年の慣習のまま、が仕事は多くても頭使わないで楽だから。 まぁ、それにしても親が関わらなきゃいけない行事が増えすぎたんじゃないかね…? 自分の小学生時分にはなかった行事がてんこ盛りだもん…。ちなみに親子で同じ小学校。



何も息子の学校だけの話ではなく、全国どこでも同じそうだ。そのため、今は教育機関や公共施設を中心に講演活動する方がおられるそうだ・・・。講師の講演料一覧という本があって、「好きなもの(好物)」まで記載されて驚いたことがある。


こうなると「講演会」ビジネスかもしれない。


子どもは社会を映す鏡だもの。事件を起こした女の子は、作文にS0Sを出していたようだ。大人になるということは、「鈍感になる」ということなのかな。私には「いのちの教育」のような大人の理想を押しつけられているから、苦しんでいるように感じたよ。


「同級生殺害」娘を籍から抜いていた加害女生徒の父!直後に金属バット殴打 2014/8/ 7  J-CASTテレビウオッチングより中学時代の作文を引用

<「僕が人生で本当のことを言えるのは、これから何度あるだろうか。
人生で、涙ぐむほど美しいものを見ることは、悲しみに声を枯らすことは、お別れのあいさつを書くことは、好きな人と手をつなぐことは?
数えたら、きっと拍子抜けするだろう。

いま人生を始めたばかりの薄い肩に、どこまでも水平線が広がっている。
あまりにも短い航海の間、僕は何度心から生を叫べるか、正の字をつけて数えておこう。
この人生の幕引きに笑ってお辞儀ができたなら、僕はきっと幸せです」>



教員である夫に「いのちの教育」の話をしたら、驚いていた。「学生が集まって大人しく話を聞くのは『授業』だからに決まっているじゃないか。『単位』がもらえるから、『決まり』だからだ。授業をしても、そんな簡単に人の心は変わるもんじゃない」ーーーーーー


当たり前である。


息子の小学校である時、飼育していたウサギが死んでしまったそうだ。なんと、低学年の子どもがウサギに図書室の本を食べさせたからだそうだ。息子はその本が大好きだから、その話を何度もしていた。


私は小さい頃、セミやクワガタを捕まえるのが大好きだった。でも、飼い方がよくわからないからすぐに死なせてしまった。犬が欲しくてねだったけれど、「ダメ!」と言われ、カナリアをかってもらった。喜んでかわいがっていたけれど、鳥かごを地面に置いてしまって、猫に食べられて泣いた。


人はそういうことを経験しながら、少しずつ「いのち」の大切さを学んでいくものだ。それに苦労しないと人生の引き出しは簡単に増えないよ。学生時代よく読んでいた遠藤周作さんのエッセーに書いてあった。作家になってから母校で講演をしたけれど、学生時代の私は劣等生だった。こういった講演をまじめに聴いていなかった。


そういう子どものほうが、子どもらしくていいんじゃないの?


だから私は落語家の叔父さんにきてもらおうと思ったのだ。叔父さんは芸能人だ。「楽屋に行けるよ」「若い噺家さんもくるかもしれない」でもなんでもいい。とにかく興味を持ってきいてもらって、一人でも多く落語ファンになってもらえれば。正直にいえば、私にもヨコシマな考えが本当はある。若い人達に、古典落語を好きになって欲しい。


いつか、「あの時そういえば」と思い出して人の死や、生きることを考えてくれれば・・・。その程度でちょうどいいかな、と思う。




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