2015/01/08

医療ジャーナリズムには『人権意識』が不可欠である

時々、コメントを下さる『ひつじ』さんが紹介して下さった本を読んで驚いた。


『ひつじ』さんのコメントを一部引用

作っていたのは「報道番組」というジャンルで、医療・環境・平和・ジェンダーのドキュメンタリーや討論番組など600本くらい。サラリーマンですから、自分の思い通りの仕事だけやってるわけにはいきませんが、近藤さんと組んだものでは、某化学会社の水銀埋立地秘密転売問題とか、某県の大がかりな体罰・スパルタ体制とかいろいろです。ここには詳しいことは書けませんが、『テレビジャーナリズムの現在』(現代書館)とか、『パブリック・アクセスを学ぶ人のために』(世界思想社)など少しに書かせてもらってます。



『ひつじ』さんはこのブログがテーマにしているような問題を長年追い続けてきた、本物のジャーナリストだったのだ。それもNHKの報道番組を制作してこられた方で、教育にも関わってこられた。こんな偶然が世の中にあるのかしら?


テレビジャーナリズムの現在―市民との共生は可能か 単行本 – 1991/7 津田 正夫 (編さん) Amazon


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現代図書 テレビジャーナリズムの現在――市民との共生は可能か

情報化社会といわれる中で、テレビはどんな役割を果たしているのか。今テレビに何が問われ、何処へ行こうとしているのか。現場の第一線記者と批評家が生の裏情報をまじえ、テレビ報道の真の姿を生々しく伝える。メディアと市民の構造。



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私が切実に願ってきたのは、退院後の育児支援を『医療問題』ではなく『社会問題』として扱って欲しい、というだった。


未熟児(超低出生体重児)をはじめ、病気や障害を抱えた子どもは虐待されることが多いという。実際に、息子がうまれてから何人も、未熟児の子どもが虐待死している。はじめの頃は、事件が起きるたびに「きっと改善されていくだろう」と淡い期待を抱いた。


しかしいつまでたってもなかなか改善しない。調べていくと大きな壁に突き当たった。退院後の育児支援は、医療者が決めてしまうからだ。当事者である親や子どもが関与することはできない仕組みになっている。私の活動を学会でとりあげてくれた社会学者は「医師を頂点としたヒエラルキーのもとでは、医師の許可がなければ患者個人では何もできない」と嘆いておられた。


しかも驚いたことに、皆多かれ少なかれ困っているのに、正面から声をあげようとする当事者があまりいない。


医療問題が社会問題として扱われてこなかった理由を考えると、医療側の人権意識の希薄さもあるだろうし、突き詰めていけば、日本には民主主義が根付いているのだろうか、という疑問にもたどり着く。


さらに、私がインタビューに実名でこたえた時、孤立してしまったのは、メディアの側にも問題があったのだ。この本を読むとなぜ孤立したかがわかる。


私は、市民の声を単に伝えるのがメディアではないと思ってきたが、この本にはそうした問題がきちんと提起されているからだ。声をあげた市民の人権や名誉を守るのも、メディアやジャーナリストの大切な役割ということをメディアの側が訴えていた。


人の命に関わる正しい情報を伝えるメディアやジャーナリストは、利益相反を抱えるのが当たり前になってはいけないし、政治や権力とも距離をおいたほうがいい。改めて思う。


驚いたことに、この本には、1989年の欧州会議で、義務教育全期間中の子どもへのメディア教育の必要性が決議されたことや、その年のユネスコ総会で「受け取る情報を批判的に意識し、情報に能動的に対応できる力を養い、メディアの使い手の権利を守る教育に重点を置く、『メディア教育』の開発」をユネスコが取り組むべきプログラムとして決めた」ということまで書いてあった。


日本でも実践しておられるNPO団体があるそうだけれど・・・


今、製薬企業のプロモーションは教育現場に巧妙に入り込んでいる。公共放送であるNHKをはじめメディアも巻き込んでいるため、被害が社会になかなかみえなかった。そのため、子ども達にも被害が広がってしまっている。


そしてもう一つ思ったこと。


「どーもの休日」をかいた近藤彰さんは、埋もれがちな市民の人権に光を当てたジャーナリストのお一人だったようだ。その近藤さんでも、当事者になってはじめて見えた景色があった、ということだ。


私は近藤さんのような方が、出版をすすめられ『涙を流した』という事実にこの問題の根深さを感じる。ある意味、犯罪被害者のために尽力した岡村勲弁護士と同じ心境ではなかったのだろうか。


近藤さんはきっと、「末期のすい臓がん患者の置かれた現状を知って欲しい」だけではないはずだと思った。それは自分自身の歩んだ10年間が蘇るからだ。


近藤さんは「がん患者の人生のバランスシートは、マイナスになるんじゃないか」というようなことを書いておられた。


私は「『人生のバランスシート』は決してマイナスばかりじゃない!」と心の専門家と言い合いになったことがある。専門家といっても当事者ではないからいくら説明しても「病気にならないと手に入られないものだってある」ということがわからないのだ。


プラスにできるかは、残された人達がどれだけ動くかにもかかっていると思う。だから伝えるだけではなく「何かを変えていけたら」。そう思ったのだ。



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日本トラウマティック・ストレス学会に伝えたいこと 私が地上に出た日 育児支援と人権と


私のために発表してくれた社会学者もまたジェンダーの研究者だったのだ。それも、見過ごされがちな女性の人権問題を扱ってきた専門家で受賞歴のある優秀な方だった。だから私を一生懸命、外の世界に連れ出そうしてくれたのだ。「あなたの主張はジェンダーの王道」と言ってくれた。


当日、発表は大成功だったそうだ。参加者には「この問題は超低出生体重児の育児だけじゃなく、もっと普遍的な問題をはらんでいる」と言われたそうだ。そう、私はずっと願ってきた。退院後の育児支援は医療問題ではなく、「社会の問題」として扱って欲しいと。外の世界に出るのに10年かかったのだ。


医療者に反発される内容が、外の世界に出た途端、沢山の共感や賛同を得られるーーーーここに悲しい事件が減らない原因が隠されているのではないだろうか。


彼女の言葉を紹介する。


「重度障害児の在宅医療は大変であり、在宅で看ることが親の愛といっても限界があると思います。私は、医療中心の取り組みではなく、社会的福祉的支援が中心になるべきであり、医師は必要に応じて役割を果たすぐらいのほうがいいと思います。


重度障害を抱えた子どもたちは医療の力がなければ生きられなかったのだとしても、子どもたち自身の生命力がなければ生きられなかったのも事実だと思います。救命された命。その命の持つ力と助ける人間の力をもっと肯定的なものへと社会が変えていく必要があると思います」。


クローズアップ現代(2013年5月28日放送『幼い命を守れ』)が放送されたのは、学会の直前だった。まさに彼女の指摘しているようなことがテーマだった。当日の発表では、クローズアップ現代についても触れられた。


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第三章生活情報番組から見たテレビ 3 求められる医療ジャーナリズム より一部引用


現代における医療の急激な進歩は、医療者と患者との関係を大きく変きた。それに伴って医療情報のあり方やその質と量、マス・メディアの果たす役割も変わってきた。医師の指示どおりに治療を受けて、病気やケガを治していた時代では医師は上位に立つ絶対的な存在だった。


ところが医療に進歩に伴い、成人病、慢性疾患、遺伝病などが、医療界の大きな課題になった現代では、医師は絶対者として君臨し意志決定をする当事者とはいえなくなってきた。


人間の生と死が医療技術の進歩によって人間の手で操作できるようになり、患者の生き方、人生観、価値観によって求められる医療が異なる時代に入ったのである。


そこで医療情報は単なるニュースやトピックスだけではカバーしきれなくなっている。脳死と臓器移植、安楽死、ガンの告知、体外受精、人工授精や代理母などの不妊治療、胎児診断、遺伝子情報など、人間や生命をどうとらえるかにより、意見が真っ向から対立するような医療問題が数多く出現してきた。


ここにはテレビジャーナリズムが取り組むべき課題がたくさんある。エイズ報道で日本のマスメディアがセンセーショナリズムに支配されて右往左往しただけの苦い経験を省みるなら、本来の医療ジャーナリズムというべき分野が未開拓だったといわざるをえない。


医療問題に取り組むには専門知識は必須である。しかしそれだけでは足りない。患者となる市民の側にたって医療を見ていく視点と人権意識が不可欠である。そして医療が政治や経済と深い結びつきで動いていることもおさえなければならない。



(中略)


(医療ジャーナリズムのあり方を考えるきっかけは1980年代の「富士見産婦人科病院事件」。当時の医師達の姿勢は、たとえ医療内容に問題があるとしても素人のマスコミに批判はさせない、という強圧的なものだった。さらに1986年 の慶応大学医学部『男女産み分け法』が確立され、その倫理問題が議論になった。)


「テレビが取り上げる問題としては大きすぎるテーマだ」と言われてゴーサインが出ず、番組は実現しなかった。翌年の産み分け問題は、NHK のスクープとして大々的に報道されたが、一時情報としてパーコール法の解説をし「問われる倫理問題」に関する識者のコメントをふっただけのものに終わっていた。


すでに臨床例もあり、その技術を選択している人びともいる以上、具体的なケースを取材した医療の進歩が市民にどのような問題をつきつけることになるのか、それを「福音」として喜んでいいのか、疑問を投げかけるのかについて議論をするべきだと思う。


しかしそのような取り上げ方の番組は見当たらなかった。こうした一連のことは医療情報を取り上げる意味と役割について、テレビ・メディア内部で位置づけがされてこなかったためだと思う。医療問題が社会問題だという認識が不十分なのだ。


※ここから先は私がまとめた内容
(医療報道を考えるために、勉強を続けた。その中で出てきた疑問)


医療を受ける市民の側からの議論があまりにもなされていないことを痛感した。それは何故か。大きくわけて以下の三つが考えられる。


  • 最先端の情報がわかりやすく翻訳されて市民に提供されていないため、難解に感じられて「素人」が口を挟みにくい。


  • 医師達の側に市民の側で議論されるべきという認識がなく、医療内容はあくまでも医者と個別の患者の間で決めることだと考える人が多い。


  • これからの問題を考える時の思想や哲学、人間観、倫理観といったものが未成熟なため、討論すること自体が極めて難しいこと。



そこで「おはようジャーナル」という番組で市民が参加して考える討論番組をつくった。


やがて、がんの告知、エイズ、愛する人を亡くした悲嘆(グリーフ)問題へと広がっていく。はじめにとりあげたのは、胎児診断と障害児の生きる権利の問題と体外受精や人工授精などの不妊治療における倫理問題だった。医師や患者などの当事者が意見を述べた。


1970年代から、欧米では生命倫理(バイオエシックス)についての討論番組がたくさんつくられていた。是非を問うのではなく、視聴者が「自分だったらどうするか」を考える内容だ。このような番組は、アメリカにおける患者の権利意識の高まり、自己決定権やインフォームドコンセントの確立のために重要な役割を果たした。



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子どもにも『人権』がある  管理教育の恐ろしさ に続く






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