2015/03/25

20年たってまたここに 取材対象者の人権を守るということ

『アンダーグラウンド』を数年ぶりに読んでみたら、大切なことを思い出した。


この本に共感したのは、村上春樹さんがサリン事件の被害者の声を表に出そうと決めた理由だった。「はじめに」にかいてある。


きっかけは、読者投稿欄に掲載されていた、被害者のご家族の投書を読んだことだったそうだ。読者投稿欄など普段あまり読まないし、気にとめたことがないのに、なぜかいつまでも心に残ったそうだ。


そこには、サリン被害への理解が社会にないために、勤務していた会社を退職せざるを得なくなった被害者の悲劇がかいてあった。


手紙を読んで私はびっくりしてしまった。どうしてそんなことが起こるのだろう?

(中略)

不運にもサリン事件に遭遇した純粋な「被害者」が、事件そのものによる痛みだけでは足りず、何故そのような酷い「二次災害」まで(それは言い換えれば、私たちのまわりのどこにある平常な社会が生み出す暴力だ)受けなくてはならないのか?まわりの誰にもそれを止めることはできなかったのだ?


その気の毒な若いサラリーマンが受けた二重の暴力を、はたの人が「ほら、こっちは異常な世界から来たものですよ」「ほら、こっちは正常な世界から来たものですよ」と理論づけて分別して見せたところで、当事者にとっては、それは何の説得力も持たないんじゃないか、と。


その二種類の暴力をあっちとこっちに分別して考えるなんて、彼にとった下の根っこから生えてきている同質のものであるように思えてくる。

(中略)

そしてかくのごとき二重の激しい傷を生み出す我々の社会の成り立ちについて、より深く事実を知りたいと思うようになった。



こうして村上さんは被害者にインタビューをしようと決意する。被害者の声を世に出そうととした理由は、被害者に人格を持たせるため、というようなことをおっしゃっておられる。


その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまり、あなたであり、また私でもあるのだから。


確かに村上さんのおっしゃる通りだった。


オウムの幹部や信者に関しては、生育歴から同級生の声まで、それこそ溢れるほど様々な情報が伝えられていた。その一方、被害者に関する情報は断片的で少ない。


だからだろうか。本を読み進めていくうちに、それまで「のっぺらぼう」のようで、ぼんやりしていた被害者像が、一人の人格として歩き出すような感じがした。


悲しみが心にせまってきたのは、そのためだ。


しかし、被害者の方にインタビューを申し込むことは、困難を極めたそうだ。なぜなら被害者の方々は、マスメディアの取材に強い不信感を持っておられたからだ。


さらに、若い女性の場合は、恐らく『結婚』という二文字がよぎるのだろう。ご本人が応じてもいいといっても、家族が反対する場合もあったそうだ。子宮頸がんワクチンの被害者にも同様の傾向があるときいた。


被害者とは、いつの時代でも、二重三重の苦しみを味わうようだ。


そのため村上さんは、被害者やご家族の人権を守るために、試行錯誤したようだ。


例えば「自分から語りたい」という人が現れるのはもちろん有り難いのだが、そのようなインタビュイーのパーセンテージが増えることで、本ぜんたいの印象が変わってくるかもしれない。それよりは、筆者としては無作為抽出的なバランスを重視したかった。


この姿勢はとても大切だと思う。なぜなら、声が大きい人の意見が、その後ろにいる大勢の被害者の声を、かき消してしまうかもしれないからだ。


例えば医療では、がんなどをはじめ様々な病と闘う患者さんが『患者会』を作って活動しておられる。それぞれの抱える『病』について正しい知識を社会に広めるためだ。しかし「患者会に所属したくない」という患者さんも多い。それは結局、声の大きい人の声しか届かないから、なのではないかと思っている。


そして、もう一つ。原稿化されたインタビュイーの事実チェックの際に、実名にするのか、変更や削除して欲しい部分はあるのかなどを丁寧にきき、できるだけ希望に添う形にしたそうだ。


本を読んだ時に伝わってきたけれど、私も何度か取材を受けたからよくわかる。村上さんの、取材対象者の人権を守ろうとする姿勢には並々ならぬものを感じる。


私には、報道に関して、良い経験と辛い経験の二つの経験がある。その二つの経験を通して、報道は被害者やご家族の声を、社会に届けて欲しいと願っている。


理由は二つ。一つは、報道によって傷ついたけれど、報道によってそれ以上救われたからだ。もう一つは、被害者に必要とされる「こころのケア」は私にとって「あなたは異常」と振り分けられることでしかなかったからだ。


例えば、こころの専門家だけではなく医療者は「認知の歪み」という言葉を使う。けれど「認知の歪み」とは、ずいぶんと傲慢な考えに思えてならない。まるで「小さく生きよ」と言われているようで息苦しく感じた。


極端な言い方をすれば、専門家の考える物差しを外れたら、とたんに「異常」扱いされる。そんな理不尽な感じがしてならなかった。そもそも「こころの専門家」というフィルターに通された私の姿は、本当に私なのだろうか?


私は私のこれまでがあり、その延長で今を生きている。例え何らかの困難に陥ったとしても、私は私でしかないのにーーーーーーーー


あの頃私は「地上に出ていきたい」といつも願っていた。もしも今より社会の理解がすすめば、そこにとどまっている理由がないと思っていたからだ。


久しぶりに『アンダーグラウンド』を読んでいたらこれまでの出来事が蘇ってきた。あれから私はいろいろな経験をしたけれど、20年たってまたここに戻ってきた、という感じがする。何度読んでも『アンダーグラウンド』は響くものがある。色あせない。やっぱり村上春樹という人はすごいな。

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