2015/04/16

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その2

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その1 の続き


青森第五連隊行軍経路(神文吉大尉 遭難) 

弘前第三十一連隊行軍経路(福島泰蔵大尉 無事帰還)

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時代背景と世界情勢


明治28年(1895年)3月、日清戦争が実質的に終結したことに伴い、翌4月に締結された日清講和条約によって、日本は朝鮮国の独立と、遼東半島の割譲、さらに蘇州と杭州の開港を得ました。


これに対してロシア、ドイツ、フランスの3国は「アジアの平和を脅かすもの」として日本に遼東半島の返還を要求しました。さらに清国の日本への賠償金の支払いを一部肩代わりしたロシアが東清鉄道の敷設権を獲得したうえに、旅順と大連の港を租借し、さらに朝鮮に進出を企てるなど、日本国内は日露戦争勃発直前の緊迫感に包まれていました。


二つの隊の誕生


【 第五連隊の成立 】


明治8年(1875)12月16日、第五連隊として編成されるだいたいが、青森筒井村に設置され、以来、第五連隊は寒気と雪が作戦に及ぼす影響の研究と寒地での軍事訓練を重ねていました。


本州の北端に位置する青森周辺は、およそ半年は雪に埋もれ、1~2月は吹雪で交通が途絶することもしばしばで、気温が時には氷点下10℃を下回るなど、耐寒訓練としては、絶好の地で、実際に小湊、小川原湖、十和田湖周辺などで雪中行軍、氷上歩行などの訓練が毎年のように実地されていました。


第五連隊の行軍が青森屯営から、八甲田山に向けて出発した3日前に、弘前から第何十連隊の行軍が出発、十和田湖南岸を経て現在の十和田湖を向け、さらに八甲田山に向かっています。


入山後は、青森隊が目指したものと同じ行路を数日後、逆方向から突破し、一人の犠牲者も出さずに青森に下山して、さらに弘前まで無事に帰還しています。


ロシア戦に備えた冬季演習



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第五連隊では明治8年(1875)の設立以来、積雪寒冷地での軍事行動についての研究が進められ、数々の雪中耐寒訓練が実地されていました。


① 明治23年(1890)には、奥野光照大尉が酸ヶ湯を経て十和田湖畔までの接収行軍を敢行しました。

② 明治32年(1900)には、加藤房吉大尉が小川湖の氷上歩行の試験を行いました。

③ 明治33年(1990)には第一大隊が小湊で雪中行軍を行いました。

④ 明治34年(1901)には第三隊が浪岡の五本松付近で雪中行軍を行いました。

⑤ 神成大尉も、出発直前の明治35年(1902)1月18日に20名の一個中隊で田代街道を小峠まで予行行軍を実地しています。



弘前の大三十一連隊においても明治33 年(1900)2月に、雪中露営の研究演習が実地され、明治34年(1901)2月には、二つの部隊により、弘前から藤崎を経由して鯵ヶ沢至る雪中行軍が実地されました。


真冬の八甲田超えが意味するものは、当時予想された戦地満州であったものの、仮想敵国のロシアが津軽海峡と陸奥海峡を封鎖した場合のことを想定していたからはじまります。


ロシア海軍が艦砲射撃で沿岸の軍事施設や鉄道、道路などを破壊して築城させる場合、軍隊が常時駐屯している青森や弘前よりも、比較的手薄な八戸付近であろう、と考えされており、そうなった場合、青森と弘前からの迎撃部隊は現在の国道4 号を進行することになりますが、この道路が砲撃などで遮断されれば、やむなく八甲田超えをしなければならなくなります。


夏季なら容易なルートですが、冬季だと現代でも通行止めになるほどの難コースで、第八師団としてもこの難問に取り組む必要があったのです。


幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その3






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