2015/04/17

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その3

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その2 の続き


(分かり易いよう、遭難した青森第五連隊(神文吉大尉)は赤無事帰還した弘前第三十一連隊(福島泰蔵大尉)は青にしました)


第五連隊の行軍計画


当時の世界情勢からロシアを仮想敵国と想定していた陸軍は厳冬期に、八戸平野に侵入した敵に対するために、青森から八甲田山を越えて三本木(現・十和田市周辺)にいたるルートを確保しようと考え、厳寒期の雪中露営と雪中戦闘の研究という主要任務のもとに、まずは青森へ田代間約20㎞の一泊雪中行軍を計画しました。



雪中露営

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行軍隊指揮官 第二大隊長山口少佐

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(左)主任中隊長 神文吉大尉 
(右)銅像のモデルといわれる後藤房之助伍長


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行軍隊の指揮官は、第二大隊長の山口少佐が努め、主任中隊長には神文吉大尉が任命されました。行軍隊は伊藤中尉、鈴木少佐、大橋中尉、水野中尉がそれぞれ率いる4個小隊と中野中尉を小隊長とする特別小隊で編成され、さらに編成外に大体本部として山口少佐と奥津大尉、倉石大尉、永井軍医らが加わり、総勢210名の部隊となりました。


実質的な責任者である神成大尉は、雪中行軍5日前の明治35年(1902)1月18日に、20名の一個中隊で田代街道を小峠まで予行行軍を行い、その結果を踏まえて連隊屯営から田代新湯まで一泊の行軍を予定しました。雪中であることから、一日では到達できないことも考慮して食料など露営の準備もしました。


出発前日、山口少佐から、凍傷のおそれを避けるために、休憩は3分以内にすること。休憩中は手足を摩擦することなどが指示され、また永井軍医からは、略装の一般防寒着に、手袋、わら靴直用で、飯ごう、水筒、昼飯、丸餅2個を持っていくなどの注意がありました。


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死亡将兵の出身県


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救助された治療中に死亡した6名を含む、死亡兵将199名を出身都道府県別に集計したもの。

【岩手県】……139名

【宮城県】……46名

【青森県】……5名

他に、東京都、神奈川県、熊本県、北海道、秋田県、山形県、佐賀県、長野県が1名となっています



これは当時、五連隊には岩手県と宮城県の出身者が、青森県出身者は弘前歩兵第31連隊に入隊したため、青森の気候に不慣れだった人達が多かったことも、原因の一つとされています。


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二隊のルート


青森第五連隊行軍経路(神文吉大尉 遭難) 

弘前第三十一連隊行軍経路(福島泰蔵大尉 無事帰還)

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第五連隊は八甲田山の北側を南下して田代新湯に向かう一泊行軍、第三十一連隊は弘前から十和田湖の南湖畔をかすめながら三本木(現・十和田市)に出て、さらに西進北上して八甲田山(田代方面)を声、青森に出た後に弘前へ戻るという、十一泊の長距離行軍でした。


二隊の編成の違い


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(第三十一連隊は軍隊とはいえないような小規模の部隊編成であることがわかる。映画「八甲田山」では、福島泰蔵大尉役の高倉健さんが「死ぬかもしれないから、自ら志願した若い兵士を集めた」と上官に報告する)


第五連隊が出発した1月23日の天気図

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第五連隊の行軍経過


1月23日

午前6 時55分、第五連隊屯営を出発。田茂木野あたりから運搬隊が遅れはじめ、午前11時30分ころ小峠に着いたころから天候が急変します。

午前4時、馬立場に達して、はるか遠方の運搬隊への支度と、田代新湯に先遣隊を派遣します。風雪と寒気はますます厳しくなり、先導隊が迷って、いつのまにか本体の後方につくなどと混乱をきわめます。立ち往生した一行は露営を決め、午後9時頃にようやく到着した運搬隊が炊事をはじめますが、難航して午前1時過ぎにようやく半煮の飯が配られました。


1月25日

午前3時、比較的元気な残り3分の1の将兵で出発しますが、猛吹雪の中をやはり迷い続け、前夜の露営地に戻ってきてしまいました。午前7時ごろ、斥候隊を編成した田茂木野方面に派遣して、その報告で帰路に着きます。

午前3 時、馬立場に達しますが、すでに多くの将兵は散り散りになっていました。午前5時、中野森の凹地で3 泊目の露営をはじめます。


1月26日

午前1 時、残った30名ほどで出発します。

午前11 時、神成大尉と石倉大尉の2隊に分かれて、それぞれが道を求めます。石倉大尉の一行は駒込側で行き止まり、そこでとどまることになります。神成大尉の一行は大滝平らで力尽きて倒れますが、後藤伍長が立ったまま仮死状態に陥って、捜索隊に発見されます。


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第三十一連隊の行軍経過


福島泰蔵大尉

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弘前第三十一連隊

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1月20日

午前5時20分、37名の福島隊が弘前屯営を出発します。唐竹を経て小国まで、順調に進みました。


1月21日

曇り空に小雪がちらつく中、深い雪に阻まれながら切明までの行程を突破しました。


1月22日

切明で5名の案内人を雇い、終日、風雪の中を温川を経由して十和田湖畔までの行軍です。


1月23日

十和田湖畔に沿って宇樽部まで進みました。途中で進軍が困難な場合は、真冬でも凍結しない十和田湖畔を船で行くことも考えましたが、そういうこともなく、比較的順調に行軍しました。


1月24日

猛烈な吹雪と氷点下16℃という寒気の中を休息もとらずに行軍します。水筒の水も凍ってしまい、雪を食べながら戸来村に到着して村民の歓迎を受けました。


1月25日

前日の天候に比べれば遙かに楽な日、三本木までの行軍でした。途中、語調一人が脚気とわかって、下田から汽車で帰還させました。


1月26日

翌日から八甲田越えを控えて比較的短距離の、増沢までの行軍でした。増沢では7名の案内人を雇います。


1月27日

猛吹雪の中を田代に向かいます。積雪で道を見失いながらも田代に到着、大きな枯れ木の下で雪壕を4m堀り「この過酷な自然に負けるな、天に勝つべし」と福島大尉は部下を励まし露営しました。


1月28日

青森を目指して豪雪寒気の中をくろうしながら進みますが、賽の河原を過ぎた頃夜になり午前2時過ぎに、ようやく田茂木野に尽きました。


1月29日

田茂木野で暖かい食事をとり、そのまま夜を徹して青森まですすみました。


1月30日

出発以来始めて晴天の下、浪岡まで進軍します。


1月31日

全員無事に帰営しました。


第三十一連隊の行軍計画


第五連隊が出発する3 日前の明治35年(1902)1月20日、弘前の第一位連隊37名の将兵が福島泰蔵大尉の指揮のもと、弘前屯営から十和田湖を経由して三本木に抜け、さらに田代から青森へ達して、弘前に帰るという計画で出発しました。


福島隊は途中の村落で村民の手厚い歓迎を受けながら、さらに地元の人々の生活に根付いた雪への知識と経験から多くを学び、道案内も雇いました。12日後の1月31日、一人の犠牲者も出さず、無事に全行程を突破して弘前の屯営に戻りました。


青森隊とはまったく同時期に、はるかに小規模の部隊編成で、長距離行軍を完遂した偉業には、青森の山野と雪質への経験が豊富な地元青森出身者が大半を占めていたこと、経験のある地元の村民を案内人として雇ったこと、さらに雪中行軍に対する研究・準備が十分になされていたことなど様々な要因が考えられます。


行軍日程

1月20日 弘前——唐竹——小国
1月21日 小国————————切明
1月22日 切明——温川——十和田
1月23日 十和田——休屋——宇樺部
1月24日 宇樺部——戸来
1月25日 戸来—————三本木
1月26日 三本木——増沢
1月27日 増沢—————田代露営
1月28日 田代露営————田茂木野
1月29日 田茂木野————青森
1月30日 青森——————浪岡
1月31日 浪岡———弘前

全行程224㎞余り・11泊12日



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幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その4


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