2015/04/20

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その4

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その3 の続き


食糧・衛生・服装について(主に遭難した青森第五連隊について)


【 食糧について 】


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行軍隊の運搬隊が引いたソリ14台には食糧として精米一石二斗六升(約227㎏)、缶詰肉三十五貫(約131㎏)、漬物六貫(約23㎏)、清酒二斗(36ℓ)が積まれたという記録が残されています。


このほか各自が出発当日の昼食を飯ごうに、また小食として餅三食分6個の携帯が命じられていました。また調理道具や燃料も容易され、通常の一泊行軍ならば十分な装備の質と量といえるでしょう。


【 服装について 】


第五連隊捜索隊の服装

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神成大尉の計画書や出発前の「略装ニシテ防寒外套ヲ着用シ、藁靴ヲ穿チ・・・・」という通達から、一般の兵卒は小倉と呼ばれる綿の夏服、下士官(曹長・軍曹・伍長)と将校(少尉以上の士官)は羅紗という毛織物の軍服に厚手のマントを着用したことがわかります。


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また当時の防寒装備は現代のそれと比べようもなく貧弱で、手袋や耳覆いこそあったものの、足を唐辛子と一緒に油紙で包み込んでわら靴をはく程度でした。


【 衛生について 】


永井軍医から出発前に伝えられた、凍傷の予防に関する注意。


●行軍中の休息は長いと危険が増すために、一回3分を越えないこと。

●放尿後はズボンのボタンをきっちり締めること。

●空腹も危険なため残飯は捨てずに携行して、いつでも食べられるようにしておくこと。

●酒を慎むこと。

●万一露営する場合は眠らないこと。

●服や手袋と靴下を湿らせず、濡れたすぐに乾かすこと。


以上のような、細かなもので、凍傷をいかに恐れていたかがわかります。また、わら靴のはき方が指導され、さらに懐炉の携帯も指示されました。


【 藁靴 】


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藁靴は歩いている時は暖かいのですが、立ち止まると付着した雪が固まり、凍傷を招きやすいと言われています。


【 雪壕と炊事模型 】


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第三十一連隊は露営する際に、各小個隊で約2メートル、長さ5.5メートル、深さ約2.5メートルの壕を掘りました。しかし天井を覆うことができず、厳しい寒さが襲ってきました。地面まで掘ることができず、炊事をする歳にも雪が溶けて炊飯用具が傾いて、諦めました。


【 ゴム長靴 】


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救出された石倉大尉は、東京で買い求めたゴム長靴を履いており、凍傷を免れました。


【 油紙 唐辛子 】


凍傷を防ぐ手段として、足の指に唐辛子を砕いたものを付け、さらに油紙をまく、という方法もありました。


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捜索の際、使用したかんじき、シャベル、金かんじき、指揮刀(しきとう)。(「指揮刀」とは軍隊で、指揮官が訓練や儀式の指揮に用いる刀のこと)


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アイヌ人の活躍・捜索秘話


【 アイヌ人の活躍 】


アイヌによる捜索隊


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北海道のアイヌ人は勇敢で寒気積雪に耐え、雪山の知識も豊富という話を聞いた津川連隊長が、師団参謀を経て函館要塞司令官に派遣を依頼しました。これをうけて部落村のアイヌ人、弁開凧次郎ほか6名が捜索に参加しました。


彼らは雪深い山や、最も危険な駒込川の岸を奔走して、2月11 日から4日19日までの67日間に11の遺体とおびただしい数の行軍隊が行きした武器装具を発見するなど大きな役割を担いました。4月になり、彼らの労働の季節になったため、弘前市の第八師団司令部の見学や市内見物の後、帰郷しました。


捜索秘話


【 バーナード犬の活躍 】


遺体の搬送の様子


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青森市合浦公園内の柿崎巳十郎が飼っていたバーナード犬が捜索に協力、その鋭い嗅覚で深い雪の下からの遺体発見に活躍しました。


また、東京日本橋の小林善兵衛が、セントバーナード犬を提供し、飼育係が犬と一緒に現地入りして協力しました。


幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その5




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