2015/04/23

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その6

幸畑墓苑・『八甲田山雪中行軍遭難資料館』 悲劇の記録 その5 の続き

生存者とその後の治療経過


生存者の記念写真

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捜索隊に救助され、青森衛戍(えいじゅ)病院に収容された者は17名でした。そのうち凍傷をまぬがれていたのは倉石大尉、伊藤中尉、長谷川商務総長の3人のみで山口鋠少佐、三浦武雄伍長、高橋房春伍長、小野寺佐平、佐々木正教、紺野市次郎の各二等卒は治療の効なく病院で死亡しました。


病床の様子

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ほかはいずれも重い凍傷に手足が侵されており、切断手術を受け、浅虫天地療養所での静養をはさんだ治療の後、退院し兵役免除となって帰郷しました。


雪中行軍遭難に対する世評


遭難事件が伝わると、全国の国民はもちろん、外国人までが熱烈な同情を表し、遭難者と遺族には多くのお見舞いの品、義援金が寄せられました。


義援金の寄贈者が多数あり、金額も巨額となったため陸軍は明治35年(1902)2月7日に義援金取扱委員を組織し取り扱いの事務を進め、2月17日には義援金の配分手続きを行う委員会を組織し、配分を行うこととしました。


義援金の総額は、5月28日までに20万円を越えました。(当時は、そば一杯が二銭でした)


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イタリア・ミラノ市で当時発行されていた絵入り新聞「ラ・トメニカ・デル・コリューレ」で紹介された雪中行軍事件。海外でも関心の高かったことが伺えます。


新聞報道


当時の新聞報道

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「二百余名の兵士風雪に倒る」

時事新報 : 明治35年(1902)2月1日付



時事新報は、「予測できない天災と諦めざるを得ない、出来事は、子細に前後の事情を調査し、原因を考究して後日の参考にすることが急務である。そして、特に、当局に希望することは、死者の遺族に対する前後処分である」と報道した。


「五連隊の責任」

萬朝報 : 明治35年(1902)2月8日付



萬朝報は、「一月二十四日は旧暦十二月十二日にあたり、青森では俗にいう『山の神の日』と唱え、古来から大荒れの天候が絶えたことがなく、市民も村民も警戒して外出しない習わしがあり、現に前日から天候が険悪になる兆しがありながら、一隊はこれを顧みず出発した」など、第五連隊の責任を問う報道をしました。


残された謎


行軍隊の責任者「山口少佐」の死


山口鋠少佐

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1月31日、駒込川大滝下流の谷底から救助された山口少佐は、2月1日青森衛戍病院に収容され、2月2日死亡しました。


少佐の死因は、明治36年(1903)5月発行の「陸軍軍医学会雑誌」136号に掲載された「明治35年凍傷患者治療景況」の中で「心臓麻痺」と発表されました。


山口少佐の死因には、遭難事故の責任をとってピストル自殺をした、という説があります。しかしこの説には凍傷に冒されて腫れた指でピストルの引金を引くことができたのかという疑問が残ること、病院内でピストルの発射音を聞いたという記録がないことから、陸軍が遭難事故の責任追求から逃れるため、指揮官である山口少佐を高濃度のクロロフォルムを使用し薬殺したという説が有力です。


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山口少佐が自殺にしようしたといわれるピストル
(山口少佐がこのピストルを実際に所有していたかどうかは不明である)



生存者のその後


後藤房之助伍長(第五連隊)


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明治35年(1902)1月27日午前11時、大滝平にて凍死寸前のところ、捜索隊に発見・救助され、翌1月28日に青森衛戍病院に入院しました。


凍傷に侵された両手指の全部・両足の膝下を切断する手術を受け、浅虫転地療養所での静養をはさんで9月10日に退院、兵役免除となり、宮城県栗原郡松姫村に帰郷しました。


帰郷後は、両足の切断箇所も治癒し、日常生活に事欠くことはありませんでした。その後、明治36 年(1903) (20歳)と結婚、二男四女をもうけ、特に酒・煙草を好み、酒を飲む際、手の甲だけで盃を朽ちに含み、一滴もこぼさないで飲み干すという特技を身につけたとのことです。また、小細工物造りにも精を出し、煙草入れ等を起用にこしらえたそうです。

大正2年(1913)4月18 日姫松村村会議員に当選し、村会に出席の際には馬で往復したそうです。大正10年(1921)4月17日まで議員を二期にわかり務めました。


大正13年(1924)7年31 日46歳で病没されました。


福島泰蔵大尉(第三十一連隊)


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明治35年(1902)1月20日から1月31日に行われた、弘前から十和田湖、八甲田山を越えた接収行軍の3月には、第三十一連隊二中隊長から、歩兵第四団副官に抜擢されました。そしてその年の10月、福島大尉37 歳の時、「キエ」21歳と結婚しました。


明治36年(1903)10月に山形補正第三十二連隊第十中隊長として山形に転任し、翌年10月に日露戦争に出征しました。明治38年(1905)1月28日、「黒講台の会戦」にて、降りしきる雪の中、指揮中に敵の砲弾を頭に受け壮烈な戦死を遂げました。40歳でした。


福島大尉は、同日付で陸軍少佐に昇進し、十六位に叙され、勲四等・功五級を受けました。



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