2015/11/13

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その11

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その10 の続き


●責任回避のための『見舞金契約』


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さらに水俣病の被害を受けたことによる、水俣病の被害を受けたことによる補償金を求める患者達に対しては、金で解説を図ろうとします。


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補償金ではなく、あくまでも見舞金として亡くなった患者には30万円。生存している患者には毎年10万円ずつ支払う。ただしこれから先、工場が原因だとわかっても、新たな補償金の要求は一切しないとの条件をつけました。一度金を受け取らせてしまえば、これから先、何が起こっても補償に応える必要はない。


●生活に困窮し、泣き寝入りするしかない患者達


こうした企業の思惑がわかっていても、日々の生活にも困る患者達はこれを受け入れるしかありませんでした。


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チッソは事実上水俣病の問題を終わらせようとします。そして、有機水銀を含む、工場排水を海へと流し続けました。


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●昭和37年(1962)年4月 沈黙したままチッソを去る


昭和37年(1962)年4月、細川は60歳になっていました。定年後も研究を続けるため会社に残っていましたが、水俣病の問題に会社が蓋をする中、もはやできることはありませんでした。細川は窒素付属病院を去ります。


それは、水俣病第一次訴訟の判決が下るまで11年前のことでした。


続く


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