2015/11/16

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その13

その時歴史が動いた『わが会社に非あり ~水俣病と向き合った医師の葛藤~』その12 の続き


しかしチッソは排水に有機水銀が含まれていることを当時は知らなかったと主張します。原告側にはこれを覆す有力な証人や物的証拠がなかなか見つかりませんでした。


2015-11-13-21.jpg


水俣を離れて7年。68歳になっていた細川は、ふるさと、愛媛の知人の病院で、診察をする日々を過ごしていました。そんなおり連絡が入ります。


水俣病裁判の原告側の弁護士からでした。患者を助けるために、細川しか知り得ない事実を証言して欲しいというものでした。細川はあることを思い出します。


●細川を決意させた、新潟県阿賀野川流域で起きた『第二水俣病』


2015-11-13-22.jpg


4年前新潟県の阿賀野川流域で、昭和電工による工場排水による第二の水俣病が発生していました。


2015-11-13-23.jpg


診察の要請を受けて駆けつけた細川は、そこで再び水俣病で苦しむ人々の姿を見ていました。


ここでも企業の論理が人々を苦しめている。細川はかつての水俣でのことを後悔します。あの時発表さえしていれば、人間に対して害を加えることは二度と起こさせないで済んだのではないだろうか。


細川は弁護士に自ら証言に立つことを約束します。細川はチッソの中枢に近い者としては唯一の原告側の証人となったのです。


●細川一は、証言することを『逡巡』(しゅんじゅん)しなかった


細川に証言してもらことを頼んだ弁護士の板東克彦さんは細川に並々ならぬ決意を感じたといいます。


2015-11-13-24.jpg


「細川先生の証言というのは、最も重要な会社が知っていた、ということです。知っていながら、死者一人、30万円で決着をつけていたということです。


『後で一切文句を言わない』と言わせて、そして生産を何倍にも、アセトアルデヒドを垂れ流して続けるわけですから。その期間に水俣病の患者の数は増えていくし、患者さん達は皆、症状を重くしていくわけです。


そういう中で、細川先生は新たな役割を、考えていかれたわけではないでしょうか。そして先生は全然、しゅん巡されなかったんですよ。証人に立たれることについて」



●病に倒れ、証言台に立つことも困難になる


ところがその矢先、昭和45(1970)年5月、細川は病に倒れます。末期の肺がんでした。証言台に立つことさえ、困難な状態になります。


2015-11-13-25.jpg


続く



コメント

非公開コメント