2015/11/25

新型出生前診断の問題点 終わりに 神様に生かされた者の使命

いよいよ本格的に動き出した。メディアといっても取り上げるのがテレビなのか雑誌なのかまだよくわからないけれど。でも最後に、私がなぜ、訴えようと思ったのか動機について詳しく書いたおこうと思った。



●細川一医師の誠実さはどこから生まれたのか?


細川一医師は、当時の水俣市では雲の上の人、神様のような方だったそうだ。当時の水俣市はチッソの企業城下町であり、その水俣市の唯一の総合病院もチッソ付属病院だった。様々な記録をあたってみると「心がきれい」「誠実」という数多くの市民の証言が遺されている。


私にはとても不可解なことが1つある。


今とは全く違うあの時代に、細川医師のような立場の医師が、ぶれることのない強靱な精神力を持ち続け、真実を証言した理由だ。番組の中で、水俣病研究会の有馬澄雄さんがおっしゃっておられた事を私も思う。


当時の法律では、なかなか勝てるような状況になかった。だから非常に難しい裁判だったと思います。会社としては、水俣病なんかが起こるなんて、全く予測がつかなかったと言えば、ある意味で済むことですから。



●チッソ側のK弁護士も真面目で勤勉な人


私はチッソ側のK弁護士を知っている。やはり誠実で真面目な人だと思う。企業の側につく弁護士は、企業の論理で仕事をしないといけない。父も会社の幹部だったからなんとなくわかる。バッサリとは切れない、善と悪との境のようなものがあるのかもしれないと今では思っている。


私と水俣病 私と華麗なる一族


●細川一医師の運命を変えた壮絶な体験


調べてみると、あることがわかった。細川医師は、私とは比べものにならないほどの「九死に一生を得る」壮絶な体験をされたそうだ。人は追い込まれてはじめてみえるものがあるという。まさに、そんな感じの心境の変化があったのだろうか。


私が「その時歴史が動いた」の特集の中で、何度も繰り返しみた場面がある。細川医師が、会社から帰宅する車をたびたびとめさせて、眺めていたという「排水口」跡の映像だった。いつか、私も熊本にいって、水俣病記念館を訪れてみようと思う。できればあの「排水口」跡にも、行ってみたいな、と思っている。


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歴史上の人物  細川 一 (1901~1970)水俣病を発見、その原因追求に半生を捧げた医師 より一部引用させていただきました 



細川一は明治34(1901)年、三瓶町(現:西予市)津布理で生まれました。教育者であった父:岡金太郎に厳しく育てられた一は幼少の頃から非常に俊秀であったそうです。宇和島中学、佐賀高校を経て周辺では珍しく東京帝国大学医学部に入学、医師の道を志します。


昭和2(1927)年に大学を卒業しますが、同大学にとどまり研究を続け博士号を取り、昭和10(1935)年に朝鮮道立順天病院、そして昭和11(1936)年には日本窒素肥料株式会社(昭和25年新日本窒素肥料株式会社・昭和40年チッソに改名)に入社、恩師であり日窒コンツェルンの創業者野口遵の義弟であった坂本恒夫氏(当時東京帝国大学医学部助教授)の紹介で阿吾地工場付属病院長に就任します。その後昭和12(1937)年大洲市細川家の養子になっています。


当時阿吾地工場付属病院は新設される病院であり、君の思うように造り上げてもよい、ということで細川は勇躍して職に就きます。その後昭和16(1941)年に訳あって水俣工場付属病院長となりますが、すぐに応召され軍医少尉としてビルマ戦線に赴くことになります。


そして昭和22(1947)年、敗戦と同時に帰国、再び水俣工場付属病院長に就任します。この時細川は、当時生還した将兵が誰でも共通して思ったように「奇跡的に生き残ったものの責任として、社会のために仕事をせねば・・・」と真剣に考えたといいます。



最初小さかった水俣工場付属病院も経営はすべて細川に委ねられ、徐々に総合病院としての設備も充実、工場労働者だけでなく地域住民のための医療センターとして理想に近いものを築き上げていきます。


また、会社幹部から「格好がつかないから」という理由で何度も院長室を造ろうと言われても、「院長室を造る費用があったら、診療室や、病室を一つでも多く造ってください」と断っていたそうです。


当時水俣工場では「社員」と「工員」の間では厳然とした差別があり、その差別は病院内にも持ち込まれていました。どんなに順番に並んでいても、本人はおろか、その家族までそれを無視し、当然といわんばかりに先に診療を受ける。その様子を見た細川はそれを嫌い、受付で番号札を配ることにし、それらの差別を一切病院内に持ち込むことを禁じました。



また細川は会社に対しても自由に振る舞ってよく、性格的に合わない営利としての病院経営などしない理想の環境で、自分の研究に没頭できる充実した時期を過ごしていました。


当時の関係者が「細川先生はいわば大学病院みたいなものでした。むつかしい病気だったら開業医がまわすし、患者さんたちも開業医でどうもいかん時は、細川先生に診てもらいよったとです。」というように、同業者からも患者からも信頼のおかれる優れた技量と高い人格、まじめな几帳面さを持ち合わせていました。



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