2014/02/04

子どもを失うということ もしも対話ができたなら

奥様を多剤大量処方で亡くしたご遺族がおっしゃっていた。「(遺族にとって)前向きに生きよなんて、偽善なんだよ。心の専門家は我々遺族が立ち直るのを邪魔しないで欲しい」と。その方はある時私に「ラビット・ホール」 というニコール・キッドマン主演の映画を教えてくれた。以前ブログに書いた「大きな岩のような悲しみは、やがてポケットの中の小石に変わる」という言葉はこの映画のキャッチコピーなのだ。



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「ラビット・ホール」は幼い息子を交通事故で亡くした夫婦の再生をえがいた作品だ。ちょうど公開がはじまった当時、私は悩んでいた。自分がしてきたことがご遺族のためになっているのか自信を失っていたのだ。ユーチューブで公開されていた予告編を見た時なぜか胸が一杯になった。惹きつけられるように、繰り返し再生したことを覚えている。ご遺族も「ある程度グリーフケア(悲嘆回復)がすんだ方にしかすすめられない内容」と言っていた。きっとあの頃、私自身何かから立ち直ろうと葛藤していたんだろう。結局映画館に足を運ぶことはなかった。


映画【ラビット・ホール】予告編


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息子の想い出をすぐにでも消したい妻


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息子の想い出をいつまでも留めたい夫


母親と父親とでは、子どもの死の受け止め方や表現方法が違うというのもリアルに迫る。予期せぬ事件や事故がおきた時、ささいな誤解が大きな亀裂をうみバラバラになってしまう家族も少なくないからだ。人は深い喪失感から立ち直る時、やり場のない怒りや憎しみをもてあますという。しかしそのすべてを、家族だからといって受け止めきれるものではないのだろう。


ご遺族がおっしゃるようにすべての方にはおすすめできないが、「グリーフケア(悲嘆回復)」のあり方として大いに参考になるのではないだろうか。立ち直るために支援や援助は必要だが、本人が自分の力で立ち上がるしかない。支援者はその力を妨げてはいけない、ということだろう。


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もうひとつの世界には別のあなたや僕がいる
「別の世界」では楽しくやっているのね



この映画で私が注目したのは、母親が事故を起こした少年と偶然出会って話す場面だ。彼女には、少年が亡き息子を一日も忘れず生きていることがわかったようだ。この日を境に彼女はじょじょに前を向いて生きていく。少年の言葉や行動がもしも嘘や偽りだったら、彼女の「生きよう」とする本能が芽生えないはずだと思った。


加害少年に接する彼女はやさしい。少年もまたこの日を境に前を向いて歩き出したのではないだろうか。少年の心の向きを変えるとしたら、やはり遺族しかいないのだと思う。私が母になって不思議だと思ったのは、どんな男性に対しても母の目で見てしまう瞬間があることだった。この気持ちを母性と呼ぶのだろうか。だから遺族である彼女が加害者である少年にやさく接する場面を、「作り話だから」とは思わなかった。「もしもこの少年が私の息子だったら」という気持ちもどこかにあるのではないかと思うのだ。


いや、被害者と加害者が対話するなど実際にはありえないと思う方もおられるかもしれないが、オウム事件被害者・河野義行さんは元服役囚と交流があるという。


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(4)妻の命奪った実行犯 面会続ける河野義行さん 産経ニュース2011.11.14 22:01より一部引用

「サリン噴霧車を製造し、懲役10年の刑を受けた元受刑者とも「友達」になった。出所後、申し訳なさそうな顔で自宅前に現れた元受刑者。服役中に学んだ職能技術をいかし、河野さん宅の庭木の手入れをし、釣りにでかける仲になった。「あいつはもうオウム(アレフ)には戻らない」

 なぜそこまで寛容になれるのか-。「それは私も『被疑者』扱いされたからだ」と即答する。
 平成6年6月27日の事件発生後、警察は河野さんの家から複数の薬品を押収。本来は被害者である河野さんを“犯人視”する報道が相次いだ。

 犠牲者の遺族らから「殺してやりたい」「お前がサリンで死ね」と書かれた手紙が何通も届いた。
 そんな経験を通じ、「恨んで、恨んで…。死刑が執行されて晴れ晴れするかといえば、そんなことは絶対にない。恨みを持ち続けながら生きていくことは不幸だ」と思うようになった。」


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ご遺族が興味深い話をしていた。PTSDから立ち直っていく課程で、もてあますような性欲があらわれるのだそうだ。映画の中でも、泣いてばかりいた母親が女性として美しく変化していく。「生きよう」とする本能を表現しているんだろうか。予行編だけでも、本当によくできていると思ってしまった。


もし事件や事故の加害者(関係者)と遺族がこんなふうに自然に出会い、会話ができたら理想的だ。なかなかこうはいかないけれど、必要なのは「謝罪」の言葉ではなく、人として失った命に対し真摯に向き合う姿勢じゃないだろうか。まわりにいる人達が悲しみを共有し、そっと見守り続ける姿も良かった。


日本の場合手や口を出しすぎるか、その反対に遠巻きにみていて何もしようとしないか、のどちらかのような気がしてならない。いくら心で思っていても、その気持ちが伝わらないと意味がないように思うのだ。やはり「グリーフケア(悲嘆回復)」というものはキリスト教文化と深い関わりがあるんだろうか。こんなふうであったなら、と思わずにいられなかった。


今私は、この映画をみても以前のようには泣けない。私はきっと前を向いて歩きだしているんだろうと思う。





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